ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

三重県・葛山一族のルーツ

御来訪いただきありがとうございます。

私は葛山氏に縁ある人で、葛山一族のルーツというものに大変興味を持っておりました。様々な文献や郷土資料等によって判明した三重県の葛山一族のルーツについて、まとめましたので是非時間の許すときにご一読ください。

 

 

また、葛山一族のルーツの共有も図っております。

1、伝え聞いていること(例:静岡から移り住んだと聞いている)

2、家紋(例:丸に左巴)

3、場所(例:三重県朝日町)

4、その他

その他伝承等あればこのコメント欄、もしくはメールでお知らせいただければ幸いです。皆様の情報をお待ちしております。

また、記事の感想等もいただければ幸いです。

 

 

三重県・葛山一族のルーツ(クリックで記事に飛びます)

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◆一度ご覧になった方々へ

この記事は、以前は三重県・葛山一族のルーツとして一つの記事としてまとめあげておりましたが、かなりの長文となってしまったため、記事を分割いたしました。

また、内容等一部修正を行っています。今後も修正等行うかもしれませんが、あしからずご了承ください。

 

検索キーワード

葛山家 葛山氏 葛山一族 葛山 三重県  裾野市

出口家のルーツ2(いなべ市の出口氏)

出口家のルーツ1の続き。

前回の記事で、三重県いなべ市に多く出口氏が分布していると紹介しました。未読の方は前回の出口家のルーツ1をまず見ていただけばと思います。

 

今回は郷土資料や実地調査によって、あるいは私の調査や見聞を交えながらいなべ市の出口氏について明らかにしたいと思います。

いなべ市在住の出口姓の方、また出口姓について何かご存知の方、興味がある方はコメントもしくはメールをいただければ幸いです。


※送信にあたってはアットマークは@に直してください)
yamatotakerunosuperuアットマークgmail.com

 

 1、 いなべ市の出口姓の分布

いなべ市でも現在は至る所で出口姓を見ることができる。私は元々出口姓は特定の場所に固まっていたはずだと考え、出口姓の分布がわかる資料を探した。

そうしたなかで、『員弁郡略史』(1954年、員弁新聞社)という本を見つけた。

同書には、当時いなべ市を治めていた桑名藩、忍藩、一宮藩が幕末に行った戸数や居住者の姓名を調査したものが記されており、それによると当時出口姓が居住していた村々は以下の通り。

 

桑名藩領 文政12(1829)年の調査

・大泉西方村(現:員弁町西方)

・楚原村(現:〃楚原)

・丹生川下村(現:大安町丹生川久下

・丹生川久保村(現:同上)

・下平村(現:北勢町下平)

〇一宮藩領 天保15(1844)年の調査

・東村(現:北勢町東村)

・別名村(現:〃別名)

・垣内村(現:〃垣内)

・麓村(現:〃麓村)

〇忍藩領 天保15(1844)年の調査

・高柳村(現:大安町高柳)

大泉村(現:員弁町大泉)

 

現在でも、以上のほとんどの地区で出口姓を見ることができるが、下平や大泉などでは現在は見られない。

 

2.いなべ市各地の出口家の家紋

1でみた昔から出口姓のある地区の墓地を調査し、各家の家紋を調べた。地区によって家紋が分かれていることがお分かりいただけるかと思う。

※下平、西方、楚原、大泉については未調査である

 

北勢町

以下の地域は北勢町の中でも「治田」と呼ばれる地区であり、『治田村誌』(1953年、治田村公民館)によると、この地区では出口家は旧家として位置づけられている。

ここでいう旧家とは、江戸時代中期以前から居住している家を指しているらしい。

また、この治田地区では出口姓は最多の苗字である。

 

・一之坂(住所はそれぞれ別名、垣内と分かれており、一之坂は自治会名)

家紋:丸に橘(図1)

古老の言い伝えによると「(一之坂の)出口家は二派ある」との事である。岐阜県から移り住んだ出口家があるというので、元々住んで居た出口家と移り住んできた出口家で二派という事なのか、別名系と垣内系で系統が異なるという意味なのか、詳しい事は不明である。

 

・垣内

家紋:丸に剣片喰(図2)、剣片喰(図3)

ほとんどが剣片喰紋の家であり、1軒だけ剣片喰の家がある。

剣片喰の家が総本家なのか、それともただ丸を入れ忘れたのかは定かでない。

 

・東村

家紋:丸に橘(図1)、丸に剣片喰(図2)

自治会は東村東、東村西と分かれているが、『北勢町風土記』(1978年、北勢町教育委員会)によれば、苗字は東西同系らしい。

 

・麓村

家紋:丸に剣片喰(図2)、丸に州浜(図4)、中輪に抱き沢瀉(図5)

北勢町風土記』によれば、麓村に古くあった家苗(出口も含む)は「元を糺せば婚姻、再縁などがあり、(略)親戚つきあいはしていないが同系が多い」とある。

 

大安町

丹生川久下

家紋:丸に剣片喰(図2)、丸に橘(図1)

ほとんどが丸に剣片喰だが、一つだけ丸に橘の家(一族?)がある。

 

・高柳

家紋:丸に釘抜(図6)、丸に違い鷹の羽(図7)、丸に抱き茗荷(図8)、亀甲に抱き茗荷(図9)、丸に三つ引き(図10)

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3.いなべ市各地の出口家のルーツ


大安町大井田庄屋、因氏
かつて、大井田村庄屋を務めた人物に出口嘉平治という人がいる。明和年間(1764~1771)にかけて大井田用水開通に尽力した他、桑名藩候勝手御賄方を務めたという。
この後、子孫代々因善六郎(1811~1899)まで大井田村の庄屋を務めた。
嘉平治は戦国時代、梅戸氏家臣で織田信長の伊勢侵攻に際して滅亡した、大井田城主の因小源太道信(道心とも)の末裔だという。善六郎は道信より12代目である。そのルーツを、『員弁史談』から拾ってみよう。

※引用にあたっては、名詞を除く漢数字は算用数字に改めた。

"桑名誌"によると昔因ノ入道道信という侍が住んでいたと云う。その子孫民間に下って、庄屋八右衛門と云い、その子嘉平次桑名藩に仕え出口氏を名乗り故あって宝永6年(1709)浪人となった。

 

"因家家系譜"によると、(中略)梅戸は田光城主梅戸高実の知行所で、家老因道信の倅(息子)子六郎が大井田を支配していたことが明らかである。因道信の息子小六郎は諸国放浪の末、大井田に戻り平民となって八左衛門と名乗り出口姓に改姓した。その子嘉平次が桑名藩主松平越中守に仕官、後大井田に帰って庄屋を拝命、旧姓因氏を称し、代々郷士となり、天明元年(1781)から大庄屋格で、善六郎(明治32没89才)まで世襲した。

 

若干の記述は異なるが、大筋では同じのように思われる。上記二つを見る限りは出口姓を称した理由は定かではないが、『員弁史談』は、「道信の孫である嘉平治が桑名藩に仕官し後浪人となって高柳に来て出口姓(伊勢度会氏系)を称し、後に大井田に移り因姓に復した。代々の大庄屋で、この村にも因、出口の両姓がある。」と記している。

高柳はいなべ市でも有数の出口姓が多い地である。


※因道信

『桑名誌』や『勢桑見聞略志』では大井田城に居城していたとあるが、『員弁雑誌』では城主を栗田左衛門左としており、因道信と栗田左衛門左を同一人物として見る説もある。

大井田城の築城、落城の年は定かでない。道信の最期は織田信長の伊勢侵攻に際して滅亡したとも、同僚の讒言によって死んだとも伝わっている。

弘化3(1846)年に建立された墓碑が菰野町田光に、昭和53(1978)年に大安町大井田、因直行家内の墓地に再建された墓碑が存在する。

因家家系譜によれば、因小源太道信は梅戸城主左近太夫佐々木高実、同左衛門尉実秀の2代に渡って家老職を務めたといい、田光村で討死したとしている。

名字由来ネットによれば、本姓は源氏で、伊勢の因氏の祖としている。

 

〇種村氏家臣

なまえさあちというサイトで日柴喜と検索すると、日柴喜さんの由来という所に以下のような記述が出てくる。

 

三重県いなべ市員弁町北金井 金井城種村氏壱万八千参百石 織田信長の家来滝川一益に滅ぼされる 種村氏の家来渡辺左近を先祖に。。持つとみられる。一六〇〇年頃の種村家の家系図に 日紫喜に嫁いだ姫さんがでてくる。 家紋が渡辺星で同じで 西方の円願寺延期によると日紫喜 近藤 出口 笹藤は種村氏の家来であったと記されている。

 

種村氏は上記のように金井城主で、『員弁郡郷土誌』によれば近江源氏佐々木家六角氏頼の末孫で、江州神崎郡種村郷に住んだ事から種村を称したという。種村氏の滅亡は天正4(1576)年とも、その翌年ともいわれている。種村氏の詳細は『員弁町史』等参照。

 

郷士出口家末裔(妙光寺

妙光寺員弁町西方にある、真宗大谷派の寺院である。

文政7年3月、「紫雲山妙光寺由緒書」として桑名藩寺社役所宛に差し出された文書があるが、その概要が『員弁町史』のP333~P334に記載されているので、引用する。漢数字は算用数字に改め、見やすくするために一節ごとに改行を行った。

西方村庄屋を務めた出口周助、出口庄兵衛などもこの系統であろう。

員弁郡略史』は庄屋を山口庄兵衛としているが、これは出口庄兵衛の誤記と思われる。

 

一、妙光寺のはじめは、天和2(1682)年に出口七右衛門入道浄音房恵便が祖父空明の草庵を寺とした。恵便の祖父出口左衛門秀信は代々大泉の郷士であったが石山合戦(1570~1580)のとき石山本願寺に入って顕如上人(第11代法主本願寺光佐)の弟子となって空明といった。石山合戦が終ってから大泉に帰り、顕如上人から頂戴した方便方身の尊影を安置して朝夕仏道に励んだが慶長6年(1601)、73歳で亡くなった。

其の後旧松平越中守のとき空明の孫出口久右衛門が大泉村の庄屋に命ぜられたとき、久右衛門の弟七右衛門は西方村の庄屋として勤めていたが、七右衛門は同村の惣吉へ庄屋を譲り出家して浄音房恵便と名乗って祖父空明の草庵を紫雲山光明寺の旧地に移し、一寺を建て、天和2年に寺号(妙光寺)を許された。

 

一、紫雲山光明寺の旧地は、昔の仏心宗の建物があり此の寺から4丁余り西の光明寺境内で堂や塔があったが、長島一向一揆のとき兵火にかかってなくなったが明光寺鎮守稲荷神社は今も残っていてこの村の氏神となっている。前から長尾堂明神と言っておりました光明寺の什物である16善神と大般若経1巻が今も残っていて長宮の草堂に納めてあって毎年7月15日の夜、大泉4か村で大念仏といって祭礼を勤めている。16善神を掘出した古跡も当村字塔坂の竹藪の中にあり光明寺伝来の不動明王1体も当寺に納めてある。

 

一、出口七右衛門が庄屋のときに川荒れの場所を開発して持っていたが生活が苦しくなって他家へ譲り現在は大泉村の地所になっているけれども古くから字七右衛門といっている。

 

一、大泉村地所の内の字七右衛門嶋の土地は出口家先祖の墓がある故当寺と別家のうちで死去があれば前々から大泉村の墓に葬っている。

 

一、当寺の先祖出口左衛門の屋敷跡は今大泉村の田地となり字御屋敷と申し伝えている。

 

一、空明の草庵跡は現在竹藪になり大泉村の宗太夫の持分となっている。

 

一、当寺の肩書については以前は勢州員弁郡大泉村と書いたが、先代の松平下総守の代になってから大泉西方村と改めた。

(以下略)

 

 

出口家のルーツ1

森岡浩編『全国苗字大辞典』(東京堂出版 2011)の「出口」の項目に以下のような記述があります。

 

方向性の一種で各地にあるが、三重県和歌山県長崎県・石川県に多い。とくに三重県いなべ市に集中している。そのほかでは、和歌山市付近や金沢市にも多い。

 

出口は一般的に「デグチ」と読みますが、長崎では「イデグチ」が主流だといいます。

いなべ市の出口氏については個人的に調べたので、その記事も併せて読んでいただければ幸いです。↓

出口家のルーツ2(いなべ市の出口氏) 

 

さて、次に私は出口氏のルーツの記載のある本を調べました。苗字辞典の類です。それらによれば、出口氏のルーツとして著名なものは渡会氏族、三浦氏族、藤原姓の3つです。しかしながら、全ての出口のルーツがこのいずれかになると考えるのは早計かもしれません。

 

鹿児島県には出口という地名が多く存在し、徳島県三重県にも出口という地名が存在します。この「出口」という地名を発祥としている出口氏も少なくありません。出口氏のルーツとして著名な度会氏系も、度会延雅という人が出口という地を領して出口氏を呼称した事に始まっています。

同じ苗字であるからといって、必ずしもルーツを同じくするわけではないのです。

 

出口氏について詳細な記載のある本は『姓氏家系大辞典 第2巻』(1936年、姓氏家系大辞典刊行会)です。

国立国会図書館にデジタル化されたものがあり、webで見ることができます。

そこに記載のあった内容を要約(ほとんどそのまま転記したものもありますが)したものを、私の調べた範囲で判明した情報を踏まえながら以下に記します。

 

度会姓出口氏

出口姓の中では一番著名なものである。

伊勢神宮外宮祠官家の渡会延貞の子、度会延雅(1300年代頃の人)が、伊勢国桑名郡出口(現:三重県桑名市長島町出口)を領して出口氏を呼称したことに始まる。以降の歴代は外宮の権祢宜を伝領した。

延雅から数えて7代目の出口延佳(1615-1690)は、江戸時代初期の国学者として知られている。

また、この出口氏は「短冊紋(図1)」を使用したと言われている。

現在発祥の地である桑名市長島町出口には、出口姓は確認できない。

 

※度会姓出口氏系図

延貞(渡会)ー延雅(出口)ー延員ー延秀ー延親ー延安

                      ー延繁ー延伊ー延良

                            ー繁園

                            ー延佳ー延昌ー延春

ー延転ー延勝ー延命ー延時

 

※ 度会氏は渡来人か?

実業家で心理学者の出口光氏が、「出口家のルーツ」として度会系出口氏を次のように考察しています。

1.『渡会』は朝鮮古語で『海族・海族を守る神』(パタライ)を示す。
2.江戸時代、伊勢神宮の外官の神主(禰宜)家として豊受大神(トヨウケノオオカミ)を奉っている。
3.長崎には出口が多く存在することから、出口氏は朝鮮から渡ってきた可能性が高い。

既記の通り、度会氏系出口氏は度会延雅が出口という地を領して呼称した事に始まっているのであり、光氏が言うように「長崎県に「出口」が多いことから、朝鮮半島や中国大陸から「出口」という姓の人々が船で渡来し、移住もしくは繁栄を繰り返しながら瀬戸内海を通り、和歌山や三重と言った紀伊半島の土地に至った」というのは考えにくいように思います。

また、長崎出口氏と度会系出口氏を結びつける史料は現状見つかりませんし、度会氏が朝鮮から渡来したという事を示す記録も私は寡聞にして存じませんし、長崎県には旧来度会姓はないようです。

度会氏が朝鮮から渡来したという仮説は、ワタライとパタライという音の類似を以て語源とする説(韓国語源説)から来ているのですが、そもそも朝鮮の古代音というのは未解明な部分が多いのが現状です。

以上を考えると、度会氏が朝鮮から渡来した一族というのは仮説としても信憑性は薄いように思われます。

しかしながら、度会氏は元々磯部氏を称し、磯部氏は海人族であったという説があり、光氏が考察しているような海に縁のある一族であった可能性は否定できません。

 

 

三浦姓出口氏(相模出口氏)

本姓は三浦氏で、新井城主・三浦時高の弟で三浦介高明の子である三浦高信が出口氏を称したことに始まる。この出口は新井城の出口に居したことに由来するとされ、三浦郡下宮村田に出口という字がある。

時高の孫・義同(1451?~1516)の時に滅亡し、『北条五代記』には「永正15(1578)年7月11日、三浦道寸討死し、其の時節、出口五郎左衛門尉茂忠、三崎の城に有りしが、一族の者共、皆舟に取り乗り、三崎城ヶ島へ渡る」とあるが、この茂忠は高信の子である。

茂忠は城ヶ島へ渡った後も抵抗したが、最終的には北条氏に降伏した。子の茂信、孫の茂正(1565~1644)と3代に渡って後北条氏に仕えたが、茂正の時に後北条氏は滅亡。この茂正こそ、『北条五代記』を著した三浦浄心その人である。

浄心の子、茂次までの系図が伝わっているが、以降の系図は不明。

現在でも、神奈川県三浦市では三浦一族の紋「丸の内に三つ引き」(図2)の出口家が多くあるという。

 

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藤原姓出口氏

家紋「丸に短冊(図3)」、「三星(図4)」、「舞鶴(図5)」

寛政系譜に「與一左衛門正元―勝之助元品―左源太元智」と見える。この出口家は江戸幕臣という。

 

佐藤氏族

肥前大村藩士。源義経の家臣で源平合戦屋島の戦いとされる)で戦死した佐藤嗣信の末裔といい、本国は美濃という。

 「佐藤嗣信」の画像検索結果

 

その他

田中家臣(どこの田中かは不明)知行割帳に「120石出口惣太夫」と見え、また加賀藩給帳に「100石出口龍太夫」とある。

摂津、志摩、美濃等にある。

 

 

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 出口家のルーツをぜひ皆さまと共有したいと考えております。皆様の出口家のルーツはなんでしょうか?

 この記事か、共有 出口家のルーツにコメントいただければ幸いです。