ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

初代近藤利兵衛

三重県いなべ市北勢町飯倉。この地には古くより近藤家が栄えています。

今回はこの飯倉村より出たる偉人、初代近藤利兵衛(りへえ)を紹介したいと思います。

 

近藤利兵衛とは3代続いた名跡で、神谷伝兵衛の醸造する葡萄酒を販売し、有名になったことで知られ、後に近藤利兵衛商店も立ち上げました。

近藤利兵衛と言えば、2代目・近藤利兵衛が知られており、初代についてはニ代目・近藤利兵衛の経歴が語られる中で語られる程度であり、その経歴や生い立ちなどはあまり知られておりません。

 今回はその初代近藤利兵衛(以下利兵衛と略称)にフォーカスを当てて、判明する限りの経歴等を記していきたいと思います。

 

さて、郷土資料の『員弁郡略史』(近藤実著)に、利兵衛について次のような記述があります。

 

※見やすさの為、一部改変しました

職業:酒造家

出身:飯倉

没年:?

略歴:酒男かた辛苦をかさね蜂蜜香ざん葡萄酒醸造で、名を天下に博す

 

蜂蜜香ざん葡萄酒を醸造していたのは神谷伝兵衛であり、その販売を近藤利兵衛が請け負っていたためそこは誤りです。

利兵衛が飯倉の近藤家より出たことを立証できる手掛かりはないかと調べていたところ、あるサイトが目に入りました。

 

ya-na-ka.sakura.ne.jp


東京都台東区谷中霊園にある「二代目・近藤利兵衛」とその妻「加津子」の墓です。

 

そして家紋を見てみると、「丸に桔梗」ではありませんか!

「丸に桔梗」という紋は、飯倉近藤家の紋であり、郷土資料が嘘をつく理由もありませんから、なるほど飯倉出身というのは間違いないです。

 

利兵衛が飯倉を出たのは幕末の事ですから、飯倉の近藤家は江戸時代より「丸に桔梗」を受け継いでいるということもこれで明らかとなりました。

 

ここで少し、飯倉村と近藤家の歴史について触れておきます。

飯倉というのはかつては阿下喜村(現いなべ市北勢町阿下喜)の一部でしたが、1663年までに阿下喜村から独立して飯倉村として一村を為したことに始まり、その庄屋は当時この地を治めた桑名藩によって近藤仁兵衛が任命されました。

この頃の庄屋を務めた家柄というのは土豪地侍の子孫が多いですから、近藤仁兵衛の先祖もそうした人であったのかもしれません。

 

かつて飯倉には5、6軒しか近藤家がなかったという風に言われていますが、これはおそらく飯倉村が始まった頃の事を指しているのでしょう。飯倉近藤家は阿下喜にある浄土真宗本願寺派の寺院・西念寺の檀家です。

 

近藤家は元々飯倉が含まれていた阿下喜に非常に多く、古い阿下喜をたとえて「ケヤキ、馬の糞、近藤」、あるいは「阿下喜は総近藤」と言われたほどで、阿下喜において近藤家は旧家であり、現在も多くの近藤家が栄えています。

郷土資料の『阿下喜根元記』には、その近藤家の由来について次のような記述があります。

阿下喜の家苗を平近藤といふ。往古此処は江州日野(田原)秀郷の嫡子田原千晴(別名千時)の男近藤太郎久頼といふ人の領地なり。この子孫代々居住したる故、村中共に名乗る。

 

阿下喜には庄屋を勤めた島田家や、医者の家系である稲垣家もありますが、この島田家や稲垣家も近藤に縁ある一族だといいます。

 

さて、話を初代近藤利兵衛に戻しましょう。

『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』は、利兵衛の履歴について以下のように記しています。

 

この利兵衛氏は伊勢の生れで、若い時兄と二人で郷里を出て、下野国佐野で暫く酒の醸造をして居た

 

先述の通り、利兵衛は伊勢国員弁郡飯倉村(現在の三重県いなべ市北勢町飯倉)で生を受けました。利兵衛の正確な生年はわかりませんが、『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』の記述を見る限り、天保年間(推定天保3、4年〈1833、34〉)の生まれではないかと思われます。

利兵衛が生まれた頃の飯倉村は23戸しかなく、こじんまりとした集落でした。当時は近藤、笹田、伊藤の3氏が居住していました。

 

では、なぜ利兵衛は下野国佐野で酒の醸造をすることになったのでしょうか。

先述の『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』には次のような記述があります。 

其後兄と別れて単身江戸へ乗り出し、日本橋酒類の取次販売を始めるに至つた。妻女を「はる」と云つて岩吉君の実姉であるが、夫婦の間には子供がなかつたので、弟を養子に迎へることになつたのである。

 

また、郷土資料の『員弁史談』(近藤実著)に、戦前朝鮮京城で実業家として活躍し、戦後は阿下喜町町会議長を務めた近藤修(1873~1953)が語った話として、以下のような話が出て来ます。

 

修氏の祖父八蔵氏は、阿下喜村の隣村である治田村で酒造業を営んでおり、、ここでは年一回の工員の慰安旅行がもたれ、江戸、日光と京阪四国への二班へ分けて行われた。利兵衛は、或る年の慰労に東組に加わり、帰途上州酒の本場、佐野の千石づくりの大酒造家の工場見学中、当家の主人に見込まれ、同家の酒造に従事することとなった。はからずも主人の気に入り、その妹と夫婦になって東京に移住し、専ら販売の任にあたった。これは明治十(※ブログ主注:1877)年頃の話だという。

 

つまり、利兵衛は治田村で酒造業を営んでいた近藤八蔵家の工員として働いてたが、兄と共に年に一回行われる工員旅行に参加して、その帰途で佐野の千石づくりの大酒造家の工場を見学していた時に、その家の主人に見込まれてその家で酒造に従事し、主人に気に入られたということでしょう。

 

しかし、『員弁史談』にあるような主人の妹と一緒になったというのはおそらく事実ではありません。

妻の実家である松熊家のその暮らしぶりについて『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』は「あまり裕かな生活ではなかつた」としています。さらにこの松熊家も下野国佐野ではなく江戸にありましたし、松隈家が酒造家をしていたという記録も管見の限りではありません。

それに主人の妹を娶ったということであれば、『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』の「兄と別れて単身江戸へ乗り出し」という記述とも矛盾します。

 

事実はおそらく『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』にある通りで、佐野の主人に見込まれた利兵衛は兄と別れて単身江戸に渡り、日本橋檜物町で酒類の取次販売を始め、この時に縁あって松熊はると婚姻に至ったのだと思います。

この時の利兵衛の商売は「相当繁盛」していたようです。明治初期頃のことでした。

 

しかし、夫婦の間には子宝に恵まれませんでした。そこで、妻はるの弟・岩吉を養子に迎えようとしました。この岩吉こそ、著名な後のニ代目・近藤利兵衛です。

岩吉は松熊林蔵の三男として安政6年(1859)4月15日に江戸で生まれ、寺子屋を出ると日本橋小網町にある砂糖問屋の百足屋に奉公に出ていました。彼は仕入れの大役をよく任され、休みの日も遊ばずに勉強をするといった真面目な少年だったと言います。

 

「熊吉を是非養子に」と望んだのは利兵衛でした。養子に入った熊吉はまだ20歳ばかり(おそらく明治12年〈1879〉頃)の若者でしたが、真面目で一生懸命働き、間もなく店の一切を切り盛りするほどで、既に相当な資産も出来ており、「早く家を養子に譲って楽隠居でもしたい」と常々考えていた利兵衛は、なるべく店のことは岩吉に任せ、口を出さなかったといいます。 

 

熊吉も養父利兵衛の期待に応えて、朝早くから夜遅くまで働き、何事も養父と相談して一切を切り盛りしていました。

 

利兵衛家は大層広かったために、大蔵省の官吏である香取という酒豪に貸していたといいます。

この香取という男がある時に浅草にある葡萄酒のコップ売り屋で葡萄酒を飲んで感激を受け、下宿先の利兵衛家に戻ると「今まで飲んだことがない味だ、しかも値段が安い」ということを利兵衛や岩吉に盛んに吹聴しました。

岩吉は「それではまずは取り寄せて味見をしてみよう」と浅草の神谷伝兵衛という酒屋から取り寄せると、確かにその味は実に類のないうまさで、従来の葡萄酒とは全然違った香気や甘味があるのに驚き、岩吉は利兵衛と相談した上でこの洋酒の取次販売をしてみたいと、神谷伝兵衛に交渉したそうです。

 

岩吉と伝兵衛は意気投合し、近藤利兵衛商店は従来取り扱っていた各種の酒の販売は二の次とし、この蜂印香竄葡萄酒の販売に尽力しました。そして画期的な宣伝方法も相まって、近藤商店はより一層繁盛しました。

 

そして、岩吉が30歳になる頃(明治22年〈1889〉か)、当時55、6歳であった利兵衛は常々「早く家督を譲り、自分は別居したい」と考えていましたが、それには熊吉に妻帯を持たせる必要があると考え、栃木県下都賀郡栃木町困部 市川弥平の長女・かつ(明治4年〈1871〉10月生)と結婚させました。

かつは利兵衛の姪にあたるということですから、市川弥平というのは下野国で離別した利兵衛の兄なのかもしれません。利兵衛の兄は市川家の養子に貰われたということなのでしょうか。

 

熊吉は妻帯することはまだ好んでいなかったようですが、少しでも早く隠居したいと考える養父利兵衛のために、結婚を承諾したといいます。

 

そして明治25年(1892)5月13日、岩吉31歳の時に利兵衛は家督を譲り、6月29日には利兵衛は隠居しました。

ここにおいて、熊吉は養父の名を襲名して2代目・近藤利兵衛を名乗りました。養子に家督を譲った利兵衛は日本橋区村松町に一戸を構えて別居していました。

 

しかし、親孝心な養子は一々養父利兵衛に相談し、またその結果を報告しに行きました。本町から村松町まではかなりの距離でしたが、健康な限り乗り物を使わず、誰も歩かない豪雨の日でもそれは変わらず、見かねた店員が「今日はお車を呼びましょうか」といっても、「なに、大丈夫だ」と傘をさして元気に養父のところへ相談、報告に行ったといいます。妻のかつも、この義父母を慰めることを忘れなかったといいます。

 

初代利兵衛がいつ頃亡くなったのかは、私の調査したところでは明らかになりませんでした。しかし、明治末期から大正初期にかけて亡くなっているのではないかと思われます。

その後、近藤利兵衛商店は大正七(1918)年に株式会社となり、財界にも進出していきました。その翌年、大正8年(1919)4月28日、2代目・近藤利兵衛も亡くなります。行年61歳。法名は「超世院釈興道居士」。

 

私は利兵衛と同じ飯倉近藤家にルーツを持つものであり、なんとなく親近感をかんじます。

江戸時代末期に田舎の山間部を出て、創業の大業を成し遂げた初代近藤利兵衛翁。

郷土出身の偉大なる先人に対して、惜しみない敬意を表し、その功績を後世まで語り継いでいきたいと思います。

 


さて、近藤利兵衛商店はその後どうなったのでしょうか。私なりに調べてわかったことを記して結びとしたいと思います。
二代目・近藤利兵衛は、現福島県いわき市の実業家である白井遠平の六男・六郎を自らの四女・冨子(明治29年〈1896〉生)と婚姻させ、養子として迎え入れました。

六郎の経歴については、『現代業界人物集』に詳しいです。

 

六郎は明治19年(1886)3月生まれ、明治42年(1909)に慶應義塾大学理財科を卒業した後、欧米に遊学して大正2年(1913)コロンビア大学経済科を卒業して帰国し、近藤利兵衛の養子となって養父の死後家督相続するとともに、3代目・近藤利兵衛を襲名しました。

 

戦時中の卸機関の整理統合により、商店(近藤商事㈱と改称)は蜂ブドウ酒による営業を中止、一方では倉庫業、不動産業などに従いましたが、終戦後の空白期に酒類の卸を廃業し、ここに約70年と3代にわたる酒商、近藤利兵衛商店の歴史に終止符が打たれたました。
子孫は多岐に渡り、現在も連綿と続いているものと思われます。

 

 

※官報より