ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

ルーツ田中家(熊本県八代市鏡町内田)

田中家一族系図(一部略)

戸籍の情報を基とし、ブログ主の集めた情報を基に作成。

 ↓系図をクリックすると拡大します

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 ※個人情報保護の為、一部名前を伏字(アルファベットは必ずしもイニシャルではない)。女性は赤字、太枠は田中家の人、二重線は婚姻、黄色は本家。

 

鏡町内田 田中家系譜

※市町村は現在のものです

初代 長助
妻   タセ(1822?~1889)・・・八代市氷川町鹿島
                   上村伊七次女

2代 勇作(1834~1892)・・・長助長男
妻 ワキ(1840~1923)・・・八代市高下東町 上田新平長女

 

3代 才蔵(1860~1927)・・・勇作長男
前妻 不明
後妻 サモ(1864~1944)・・・八代市鏡町
                嶋田太蔵(島田太三)の長女
                福岡県大牟田市久保田町にて

                死亡
                      同居者池末ツキが届出

弟 豊吉(1865~)・・・勇作次男、分家
妻 テツ(1871~)・・・八代市鏡町内田 倉本寅吉次女

妹 不明・・・勇作長女

妹 チセ(1874~)・・・勇作次女、鏡町内田 田上京吉と婚姻

弟 栄十(1877~)・・・勇作三男、分家
妻 ツイ(1887~)・・・八代市鏡町内田 藤川浅吉三女

 

4代 安太郎(1881~)・・・才蔵長男。
妻  ミツエ(1896~)・・・八代市鏡町内田 白田伊之吉次女 

弟 嘉市(1891~1960)・・・才蔵三男。ブラジルに渡った後、福
                岡県大牟田市で死亡。
               届出をしたのは同居の親族池末Jり氏
              (ツキの子)
妻 ナミ(1889~)・・・八代市千丁町古関出 内田作平四女

妹 イチ(1893~1931)・・・才蔵長女、私の曾祖母
                      三重県 近藤周三郎と婚姻
妹 ツキ(1896~)・・・才蔵次女
             福岡県 池末江郎?(字不明瞭)と婚姻
                          もしくは四郎か?

弟 大次(1898~)・・・才蔵四男、分家
妻 ミエ(1901~)・・・八代市千丁町古閑出 古島夘七次女
    もしくはノエ?

妹 ハス(1900~)・・・才蔵三女
             八代市鏡町鏡 泉用吉?と婚姻

 

私の祖父、I男の母、イチは当時、熊本県八代郡鏡町大字内田(現熊本県八代市鏡町内田)の田中家出身です。熊本県はとりわけ田中家が多く分布しています。

祖父は幼少の折、母親であるイチを亡くしており、母親の事はおろかルーツの事は何も聞いていないと言っていました。

 

しかし、かすかに祖父が知っていた事は以下の通りです。

・母親は熊本出身

アメリカかブラジルに行っている人がいる(帰ってきているかどうかは不明)

・父親の周三郎が仕事で熊本を訪れた際にお見合い結婚した

 

また、曾祖母の遺品としては唯一次の写真が遺っていました。右が曾祖母、イチで左はおそらくイチの母、サモだと思われます。

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私は曾祖母イチの戸籍を遡りました。すると、曾祖母イチの兄がアメリカへ渡っており、またイチの甥、I男がブラジルに渡っていた事が判明し、祖父の証言と一致しました。

また、戸籍の情報を手掛かりに田中家関係者の方にお手紙を送ったところ、一人の方と連絡がつながりました。その方は祖父のいとこにあたる、曾祖母イチの兄、田中安太郎の三女、住田F子さんです。

 

 住田さんによれば、田中家の家紋は丸に四ツ目だといい(平四ツ目など色々バリエーションはあるとの事)、菩提寺八代市千丁町にある大法寺だという。

F子さんの父、安太郎は継母や異母兄弟とそりが合わなかったためか、「男ならば一本立ちしてみせる」と単身アメリカへ渡って鉄道会社で働き、アメリカ在住中に写真結婚でミツエと結婚したと言います。ミツエの実家は大農家だったといいます。

 

その後、安太郎は熊本へ帰り、実業家や政治家をしていたとのことです。F子さんが子供の頃には田中家には女中さんやお手伝いさんがいて、アメリカへ行って食事をされたこともあったといいます。

 

F子さんは余り田中家の事については余り知らないといい、おじやおばの事もよく分からないとのこと。ただ、池末ツキ(ツギ?)のお葬式には夫と二人で行ったといい、その他田中大次は台湾に住んでいたといい、終戦後熊本へ戻り、政治家をしていたF子さんの父の勧めで地元の漁業組合に参加していたといいます。

 

田中家はF子さんの兄であるD隆さん家ですが、F子さん以外の兄弟は皆既に亡くなり、現在はF子さんが田中家の墓守をしておられるとの事でした。

 

次に、F子さんの情報を基に政治家をしていたという安太郎の足跡を追えば何か田中家についての手がかりが得られないかと思って調べていくと、彼についての資料が見つかりました。

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上記史料から、田中家はかつて貧しかったこと、そして農業と漁業を兼ねていたであろうことなどが分かりました。『内田郷土誌』によれば、鏡町内田は自作農家が少なく、小作農家が八割を占めたと言い、貧しい中でも曾祖母や先祖達は必死に生き抜いた事がうかがえます。

この資料によれば安太郎で田中家は三代目だといいます。また、この資料では幼くして両親を亡くした事になっていますが、父親の才蔵は昭和2年まで存命だったため、これは母親の誤記と思われます。

 

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私が知り得る田中家は以上の通りになります。できれば田中家のルーツについて直接熊本を訪れて色々と御話を聞いてみたいのですが、現状その機会に恵まれません。

 

もし家系図やこの記事を見て思い当たる節や記事の感想等がありましたら、ぜひともコメントもしくはメールにてお寄せください。お待ちしております。 

 

 

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