ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

三重県・葛山一族のルーツ②「宗家とその先祖・葛山豊後守政続」

さて、いなべ市北勢町別名・垣内・東村・中山・麓村・奥村・新町を総称して「治田」と呼ばれる地域ですが、同地のある葛山さんに御話をうかがった所、「治田の葛山家の宗家にあたる家は、富田の方にある」とのことです。

かつてその家を尋ねたところ、同家には今川義元から拝領したという鉄砲や甲冑が伝わっており、実際に見せてもらったといいます。

 

ある方はこの家の当主の方から「葛山氏は、年号が変わるたびに大きな転機を迎えている」、「葛山一族は、伊勢と長野に落ち武者として逃れている」、「追っ手からのがれるため門山と名前を変えている」といった事を聞いたようです。

 

年号が変わるたびに大きな転機を迎えているというのは誠にその通りで、

永禄年間には桶狭間の戦い駿河侵攻という葛山一族の運命を揺るがす大事件があり、

元亀年間には今川氏から武田氏へ離反した氏元ら一族が処刑され、かつ信玄の子息である信貞の葛山氏継承があり、

天正年間には信貞も武田氏滅亡に殉じています。

 

また、『葛山一族』(日本家系協会刊、1985年、以下『一族』)という本があります。

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これは限定200部のもので、ほとんどの図書館も所蔵しておらず、現在では入手困難のものですが、この本には先程紹介した家と思われる家について次のような記述があります。(※一部改変)

葛山備中守惟兼の十六代を備中守信貞といふ。信貞は、智勇兼備の将にして、永禄三年(※1560)、桶狭間の合戦には、今川義元より五千の兵を預けられ、南方より織田方攻めの先陣をつとめ、激戦ののち、ついに討死して了りぬ。今川勢敗るに及び、清州攻めの将たりし、葛山左衛門広重の末孫、葛山豊後守政続以下、葛山氏の一族は、或は討死し、或は離散して各地に分れたり。

その一に、伊勢国に徒りて土着せし一流あり。今に系を伝ふ。彼の家の承伝に、近世以降の系を左の如く伝へたり。

 

〇政続 葛山兵之祐、豊後守、永禄(※1558年~1570年)中の人

・祐続 兵右衛門、天正(※1573年~1593年)中の人

・某 孫之祐、慶長(※1596年~1615年)の人

・某 兵平衛、万治(※1658年~1661年)中の人

・某 甚右衛門、寛永(※1624年~1645年)中の人

・某 長左衛門、寛文(※1661年~1673年)中の人

・某 甚五兵衛、正徳(※1711年~1716年)中の人

・某 七兵衛、享保(※1716年~1736年)中の人

・某 七右衛門、寛保(※1741年~1744年)中の人

・某 与三祐、明和(※1764年~1772年)中の人

・某 長兵衛、天明(※1781年~1789年)中の人

・某 卯之祐、文化(※1804年~1818年)中の人

・某 孫右衛門、天保(※1831年~1845年)中の人

・某 与七、明治(※1868年~1912年)中の人

・某 兵祐、昭和六年(※1931)没

・千志 兵三郎、昭和二十年(※1945)没

・實 当代、四日市に住す

 

『一族』の記述を見る限り、清洲方面に当っていた政続以下その一族が桶狭間で敗れ、各地へ離散したとあります。確かに、桶狭間の合戦当時に葛山播磨守の軍勢を先鋒として清洲方面に展開していましたから、事実だとすれば政続もこれに従っていたのでしょう。

しかし、文政3年(1820)に桑田藤泰らによって著された『駿河記』の庵原郡巻二で引用されている”今川軍記残篇”という軍記物語の永禄11年(1568)の部分に、「葛山豊後守」「葛山豊後守政続」などとしてその名前が見えています。

これは桶狭間の合戦の後ですから、政続は桶狭間の合戦の頃に戦死、ないしは伊勢国に土着したわけではないようです。”今川軍記残篇”にある記述は、武田信玄が今川氏との同盟(甲駿同盟)を破棄して駿河に侵攻した当時の話です。

この時の今川軍と武田軍の戦いの様子などは軍記によって異同がありますが、ここでは『駿河記』所収の”今川軍記残篇”の記述に基づいて話を進めていきます。

 

永禄11年12月14日申の刻(15時~17時)、武田軍の馬場信春高坂昌信武田信堯等が降伏した今川軍の庵原弥兵衛・福島源三郎の案内を受けて、武田軍を撃退するため薩埵峠に陣を構える庵原忠胤らの軍勢を背後の山から奇襲しました。

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左:馬場信房、右:高坂昌信


夜中であったため今川軍は慌てながらも防戦したものの、武田軍の大軍に押し切られてしまい、今川軍はある者は討たれ、ある者は逃げ、ある者は降るという有様でした。

 

薩埵峠を突破した武田軍は「薩埵山(現:静岡市清水区由比西倉澤)より井の上立花(現:清水区立花)承元寺(現:清水区承元寺町)まで、興津川を隔て東の方に陣取」っていました。

対して、その興津川を隔てて西側の横山(現静岡市清水区谷津町二丁目)と八木間(現静岡市清水区八木間町)に今川軍は陣を構えていました。

そしてこの両陣の大将・葛山政続松平家は、12月15日朝5つ時(8時)、加勢を乞うために矢部半蔵と目付・津田粂右衛門をそれぞれ駿府に派遣しています。

氏真は薩埵峠の軍勢が崩壊すると清見寺に布陣していた氏真は駿府へ退却したと言われていますから、駿府というのは氏真のいる今川館のことでしょう。

加勢を要請したことから考えて、横山・八木間の今川軍はここで武田軍を迎え撃とうとしたようです。薩埵峠が破られたこともおそらく知っていたはずで、武田軍の駿府到達を阻止しようとしたのでしょう。

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布陣図(想像)

政続を大将とする横山の今川軍4300余騎は次のような軍勢で布陣していたようです。政続に諸士は数百人だといいます。 ※一部改変

主将:葛山豊後守政続

右将:伊藤長門

左将:浅野左衛門春重

侍大将:中川吉右衛門通秀、由比作之進重武、安藤民部、仙石吉三郎、池田又五郎、渡邊左京、青木幸蔵、高木政右衛門、北条作右衛門、同佐助、岡部五郎右衛門、佐久間大八、松平善四郎、牟礼善右衛門、渥井主馬、富塚備後、大村隼人、天方軍次郎、田中平左衛門、杉原居右衛門、落合市郎兵衛、武藤金十郎、穴山十次郎、横山伝左衛門、土屋惣三郎、馬場新九郎、小笠原多五郎、直田興左衛門、小早川庄介、外山小右衛門、舟越五郎三郎、久世三吉、井戸新兵衛、近藤彦右衛門、本田喜太夫、別所主水、荒川助八郎、同助五郎、別所豊五郎、佐久間与七郎、津田与左衛門、大谷弥八郎等

 家平を大将とする八木間の今川軍1500余騎は次のような軍勢で布陣していたようです。※一部改変

主将:松平大炊介家平 (子息)松平摂津守良平

右将:松平数馬秀通

左将:斎藤民部宗平

侍大将:西郷伊織正続、富永右京、宮塚隼人、島居四郎三郎、小倉与左衛門、深津八十朗、小長谷忠右衛門等

 駿府から横山の今川軍の加勢には、以下の33人の諸士率いる2500が派遣されました。

小島十蔵、八木間幸蔵、熊谷弥三兵衛、佐藤又蔵、分部左衛門、小西源五郎、相原善左衛門、長谷川左京、大谷大蔵、大谷大助、加藤弾左衛門、同弥五郎、高橋半三郎、同十吉、別所孫三郎、矢部半左衛門、同半弥、安部弥八郎、土井八左衛門、同八之丞、有馬十郎左衛門、山内孫三郎、同孫之進、池田又左衛門、加納平右衛門、曾我七九郎、同七三郎、斎藤政右衛門、井伊定五郎、松平兵三郎、庵原佐左衛門、三浦安之丞、由比十次郎、富永源八等

八木間に派遣された駿府からの加勢、1500余騎は次の通りです。

由比淡路守、岡部兵部、富田源五左衛門、大谷刑部、市橋大学、日根織部、山内甚左衛門、山口清左衛門、青山与兵衛、中村四郎右衛門、青木友八、大谷弥太郎、長澤孫右衛門、安藤与兵衛、由比千右衛門、斎藤五左衛門、沢津八三郎等

この通りであるとすれば、元々の横山陣の軍勢4300に加勢(2500)を含めた総勢6800の軍勢をあずかる大将であった政続は、今川家から相当信頼の置かれていた人物と思われますし、とりわけ葛山一族の中でも有力な人物だったのではないかと思われます。

 

さて、ここからは横山・八木間の今川軍総勢1万300余騎VS井上・八木間・横山方面に展開する武田軍5000余騎の戦い、”今川軍記残篇”の言うところの「井之上八木間河原合戦」の様子を紹介していきたいと思います。

 

●横山加勢の小島十蔵ら今川軍(2500余騎)VS馬場信房ら武田軍(5000余騎)

朝(15日?)に横山の今川軍に駿府からの加勢2500騎が到着すると、この加勢2500騎は直に井上の川上の瀬を渡し、武田信友・馬場信房・武田信堯・高坂昌信小山田信茂等の軍勢へ攻めかかりました。

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小山田信茂

武田軍5000余騎も応戦して火花を散らして戦い、武田軍の兵士は200余騎討たれて井上の川原へ退却し、横山加勢の今川軍も180騎討たれて横山の川原へ退却しました。

結果:今川軍2320余騎(180余騎死亡)・武田軍4800余騎(200余騎死亡)

 

●葛山政続以下横山の今川軍(4300余騎)VS山県昌景ら武田軍(1500余騎)

次に、小幡山城守光盛内藤昌豊山県昌景等武田軍1500余騎が横山の今川軍に攻めかかりました。

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左:内藤昌豊、右:山県昌景

葛山政続以下4300余騎の兵は叫びながら武田軍の中央へ突撃して東西南北に駆け、半時(1時間)ほど戦った後、武田軍は300余騎、今川軍は700余騎の損害を出して、それぞれの本陣に引きました。

結果:今川軍3600余騎(700余騎死亡)、武田軍1200余騎(300余騎死亡)

 

余談ですが、この「井之上八木間河原合戦」の最中に同士討ちも発生していました。

横山組に属する由比美濃守の三男、由比作之進重忠は武田軍の小山田信茂の家臣・南部又蔵八代仁左衛門を討ち取って下川原へ引き揚げる折、八木間組に属する小早川庄介先述した横山組の諸将の中に庄介は含まれていますが、しばらく今川軍記残篇の記述に従うこととします頼則と出会いました。庄介も一人八木間への退却に遅れていたのです。

庄介作之進に対して憤慨し、遺恨のことについて問答が始まりました。遺恨とは時雨という女性を巡った色恋沙汰のことで、二人は恋敵でした。

今川家の大事にも関わらず、どちらも血気盛んな若者の彼等はついに一騎打ちに発展してしまいます。庄介はまず作之進に切りかかり、切り結びます。作之進の方が刀法が優れており、庄介は3,4カ所の手傷を負い、作之進の斬り込みを受け庄介が受け太刀になった時、庄介の朋友である荒川助次郎(横山組・荒川助五郎と同一か)別所豊三郎(横山組・別所主水と同一か)「味方打ちとは何事だ」と呼びながら駈け付けました。その時に庄介の左腕が斬り落とされ、豊三郎「朋友の討死を見逃すことは出来ぬ」作之進に斬りかかったものの、作之進は逆に豊三郎の首を打ち落として返り討ちにし、助次郎庄介の肩をかけて逃げようとしたところを追いかけて助次郎の左肩からあばらを斬りつけ、助次郎は即死しました。庄介もこの時に亡くなりました。これを見ていた助次郎の弟・荒川助八郎佐久間与七郎津田与左衛門大谷弥八郎(いずれも先述の記述では横山組)が駆けつけ、彼等は作之進を無二無三に切りかけ、作之進は合戦の働きに疲れて3カ所手傷を負い、助八郎によって作之進は討たれました。

後に人が由比小早川のしるしとして松と榎を植えたものの、そえから40年後の興津川の洪水で共に流れてしまったとのです。

 

松平家平以下八木間の今川軍(3500余騎)VS武田軍(3500余騎)

次に、加勢を併せた松平家平・良平父子率いる今川軍3500余騎が、川窪詮秋・武田信堯・真田兵庫・土屋惣藏・原昌胤・杉原正之・安中久繁・小笠原兵衛等武田軍3500余騎に討って掛かりました。

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原昌胤


両軍は雌雄を決して争ったものの、人馬も疲れて左右に分かれて控えていたところ、薩埵山に控えていた武田軍の総大将・武田信玄が5500騎の加勢を派遣しました。横山・八木間の今川軍と交戦している武田軍総勢5000余騎にこの加勢を加えれば、1万500余騎になります。そして1万500騎の大軍は着着と近づいてきていました。

家平率いる3500余騎の将兵も命の限り戦ったものの、武田軍の大軍に辟易し、興津川原の川上から西方の横山と八木間の両陣へ退却しました。この戦いで今川軍は多くの将兵が討たれたため、武田軍は興津川東の井上・立花・承元寺に退却しました。

その夜には形勢不利を悟った横山・八木間の今川軍は、両陣を引き払いました。

結果:今川軍は大損害を受けて各々退却

 

陣を引き払った横山・八木間の今川軍の将兵達のその後は、

・女体の森(現:清水区興津)へ行くもの、

・横山から山越に庵原郷(現:清水区の大部分、葵区の一部、富士市の一部、富士宮市の一部)へ引き揚げる者、

・八木間から山越に広瀬(現:清水区広瀬)、茂畑(現:清水区茂畑)へ引く者、

・草ケ谷城(現:清水区草ヶ谷)へ引き揚げる者、

・馬の瀬から谷を越え峯を越え清見寺(現:清水区興津清見寺町)へ引き揚げる者等々それぞれでした。

 

横山陣の大将である政続がこの「井之上八木間河原合戦」を生き残ったのか、あるいは戦死したのかは不明です。

しかしながら、横山・八木間の今川軍の将兵達は敗走する際にバラバラになっていることや、『一族』で政続は「永禄中の人」となっていることを考えると、この戦いで戦死したのかもしれません。

 

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