ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

三重県・葛山一族のルーツ④「仮説・治田の葛山・総論」

さて、伝承や資料を紹介してきましたが、やはり伝承や文献によって異同があることは否めません。

しかし、 1つ1つまとめていくと次のような可能性を見出すことができます。

 

桶狭間の合戦で敗れて土着したという伝承がある一方で、駿河侵攻時に葛山豊後守政続の名前があることから、政続の一党が四日市に土着したとすればこれ以後の可能性があること(政続自体は系図に「永禄頃の人」とあるから、この戦いで戦死したのかもしれない)

・「三重と長野に落ち武者として逃れている」という伝承から、永禄11(1568)年の駿河侵攻時には葛山氏元の一党と葛山政続の一党は別行動をとった可能性が考えられること

・一族は船で三重県に落ち延びたという伝承があることから、駿河侵攻時の「井之上八木間合戦」で横山陣を引き払う際に、駿河湾まで注ぐ付近の興津川から落ち延びた可能性があること

・『沿革』、『史談』共に藤原氏ゆかりの寺院を頼ったとする点で共通していること

・治田葛山家の伝承では富田の方に本家がある、四日市の葛山家でも四日市から北上していなべに入った一族があるといった伝承が共通しており、『史談』も同様の記述があること

 

これらを踏まえた上で、1つの仮説を立ててみることにします。

 

葛山豊後守政続は桶狭間の合戦を戦い抜き、武田信玄駿河侵攻時には今川方に与して4300(加勢を含めると6800)の将兵を率いる横山陣の大将で、武田軍相手に奮戦したが、武田軍の大軍には衆寡敵せず、退却することとなった。

政続の一派は武田氏に離反した領主・葛山氏元の一派と別行動をとり、興津川から藤原氏に縁ある寺院を頼って船で落ち延び、政続の一党は富洲原港に到着し、現在の三重県三重郡川越町豊田にあった、藤原氏ゆかりの長恩寺に庇護され土着。

慶安4年(1651年)に長恩寺が蒔田城跡へ移転に伴ってか、葛山一族は現在の三重県四日市蒔田に定住し、一族の一部はさらに北上して、明暦2年(1656年)には現在のいなべ市北勢町別名近辺(治田地区)に入り、その一部がさらに藤原町東禅寺に移り住んだ。

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落ち延びたルートの推測(Googleマップ

 

まだまだ不十分な点があるようには思いますが、後考を待ちたいと思います。

 

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ここで、天保1831年~1844年)期の治田地区の家苗について見て見ましょう。

同地について記された郷土史の『治田村誌』(近藤杢著、1953年刊、以下『村誌』)は、江戸時代後期に松宮元勝が記した『北勢雑記』を典拠として、「天保四、五年(※1833、1834)頃の居住者」を紹介しています。これによれば、当時別名村と垣内村の二カ村に葛山姓を見ることが出来ます。

 

中でも別名と垣内が混合する「一之坂」(小字の「市ノ坂」が元か)という地区があります。ここに葛山家は多く、この地区は藤原町東禅寺と隣接しています。

 

また、『北勢町風土記』(1978年)に昭和52(1977)年8月時点での家苗調査が載っています。それによれば、葛山家は別名地区に7軒、垣内地区には2軒、一之坂地区は20軒となっており、いずれも「旧来よりあったもの」とされています。

現在においても、一之坂地区が治田の中でも葛山家が最多となっています。

 

また『村誌』は治田の旧家として服部家・美濃部家・岡田家などと共に葛山家も挙げています。おそらく、ここでは元禄(1688~1704)以前から居住している家を旧家としているようです。

これはルーツ③で紹介したように、1651年に現在のいなべに入ったという話と矛盾しません。

昭和27年(1952)の調査では、葛山家は数の上でも治田では上から5番目(39人 ※これは戸数と思われる)に入っています。

 

先述の『史談』は葛山一族が員弁入りしたとありますが、江戸時代の記録から当時の員弁郡で葛山姓が確認できるのは、別名村、垣内村、東禅寺村の三カ村だけです。

 

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さて、葛山という姓での著名人といえば、俳優の葛山信吾さんです。

 

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https://news.goo.ne.jp/entertainment/talent/M93-0860.htmlより拝借

信吾さんは出身は亀山市ということですが、母校は四日市市にある四日市工業高校だそうです。

信吾さんもまた、四日市の葛山にルーツを持つとしたら、四日市工業へ入学したのは偶然ではなく、必然の運命だったのかもしれません。

 

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 ◆あとがき

私も先祖が葛山に繋がる者であり、葛山一族の変遷には感慨深いものがあります。そしてこの私も四日市で生を受けています。これも偶然ではなかったのかもしれません。

 

葛山家のルーツについてご存じの方、またこの記事の感想等、コメントしていただければ幸いです。メールでもご意見を賜っております。お気軽に送信ください。