ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

葛山氏人物列伝:葛山右近氏友

●諱・通称

『葛山家譜』では諱を信次、『武田源氏一流系図』及び熱海市の子孫に伝わる家譜では氏友。葛山氏当主の氏広氏元と2代連続で「氏」を踏襲しており、氏元の実父とされる葛山播磨守貞氏と「氏」を含んでおり、後述するように右近の近親者にこれらの人がいるのかもしれない。

通称の「右近」は近世初期成立の『甲乱記』、『葛山家譜』、『武田源氏一流系図』、子孫に伝わる家譜で共通している。

 

●出自及び親族

右近は葛山氏の系図では、『葛山家譜』と『武田源氏一流系図』にその名前を見つけることが出来る。いずれにしても駿東葛山氏の一族出身であることは確かなようだが、この2つの系図でも異同が激しい。

 

『葛山家譜』では、葛山氏の初代・葛山次郎太夫維兼から数えて18代目である葛山但馬守隆綱の二男・葛山播磨守綱春の四男となっている。綱春の妻は跡部越中の娘。長兄は東陽軒、次兄は御宿修理亮綱遠、三兄に御宿友綱がいる。妹に武田信堯妻

伯父に説斎、叔父に葛山備中守元氏(氏元の誤記)御宿藤七郎綱清がいる。

説斎は「臨済寺住侶、達武略、今川義元之隊将也」とあり、今川義元の軍師・太原雪斎のことを指していると思われるが、雪斎の出身は庵原氏であり、脚色である。

綱春は「与義元及鉾楯而交戦、終為義元死、笠寺籠城五人之内、最得武名」とあるため、桶狭間の戦い(1560年)で戦死したものと思われる。なお、『葛山家譜』に記載のある家伝によれば、「綱春為義元被討了」と今川義元によって討たれたとも解釈できる記載がある。これは『葛山御宿系図』の記載と相通じるものがあるかもしれないが、ここでは検討は避ける。

綱春の妻は跡部越中の娘とあるが、跡部越中とは跡部泰忠(生没年不詳)のことと思われる。

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『葛山御宿系図』では御宿友綱の父は葛山播磨守綱治(1523~1557)で、その父は葛山但馬守惟治(1471-1539)となっている。綱治の妻は跡部越中の妹。wikiでは跡部泰忠の妹となっているが典拠不明。年代を考えればその子息勝忠の妹(1520-1582)と思われるが確証はない。

この二人は仙年寺過去帳に記載があり、位牌が現存する。この系図では友綱綱治の兄弟の記載はなく、右近の記載もない。

綱治桶狭間の合戦に先立つこと3年前の弘治3年(1557)4月7日に、主君である今川義元に攻められて妻子共々自刃している。御宿友綱はこの復讐の為に密かに駿河国を脱して伯父である跡部越中守勝忠に身を寄せ、武田信玄に仕えることになったという。

 

『武田源氏一流系図』では、葛山播磨守信貞(1560年の桶狭間の戦いで戦死か)の嫡男・御宿左衛門佐信名の子となっている。信貞の妻は武田信玄の妹。叔父に御宿友綱、叔母に小山田信茂武田信堯妻がいる。この系図では右近の兄弟は記されていない。

『一本武田系図』においても、油川信恵の子に信貞信友の記載があるが、他の兄弟の記載はない。また信貞の子として信名の記載があるが、こちらも他の兄弟の記載がない。省略されているだけの可能性もある。この系図では信連信友の子になっている。

祖父にあたる葛山播磨守信貞は「属今川義元、在城尾州笠寺」とある。これは桶狭間の合戦(1560年)の時であり、この戦いで葛山安房守元清と共に戦死したと尾張高徳院過去帳にある。

父の信名右近出生の際に既に御宿を名乗っていたのか、右近出生の後で御宿を名乗ったのかは定かではないが、いずれにしても右近自身が御宿を称した記録は確認できない。

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以上、右近の記載のある『武田源氏一流系図』と『葛山家譜』では、右近の近親者の直系尊属葛山播磨守とその弟に御宿藤七郎、近親者の傍系血族に御宿友綱武田信堯妻がいることが共通している。

 

熱海市の子孫に伝わる家譜では、右近の弟に葛山貞植なる人がいたとされる。

 

●生涯

叔父もしくは兄である御宿友綱が1546年頃の生まれであることから、少なくとも天文16年(1547)以降の生まれであることは間違いない早くてもこの天文(1532-1555)中、遅くとも永禄(1558-1570)中には出生していると思われる。

 

右近の経歴については不明で、『葛山家譜』に「与武田相模守信豊同討死」、『武田源氏一流系図』に天正十年、与武田相州一処打死」「天正十年(略)葛山右近氏友、甘利右衛門打死」とあるだけである(これらの系図の記述は後述する『甲乱記』に基づいたものだろう)。

 

つまり甲斐武田氏武田相模守信豊(1549-1582)に与して討死し、これは天正10年(1582)のことであったことが窺える。右近信豊に仕えていたということだろう。信豊武田信玄(1521-1573)の長弟・武田信繁(1525-1561)の子で、信玄の跡を継いだ武田勝頼(1546-1582)の従弟にあたる。

この年に織田信長(1534-1582)が嫡男・織田信忠(1557-1582)を大将として甲州征伐を行ない、武田氏を滅ぼしている。

 

では右近信豊に仕えるに至った経緯は何なのだろうか。

『武田源氏一流系図』によると、右近の父・信名は「始属義元」とあるから、信名の時に今川氏から武田氏に仕えたのではないかと思われる。

信名の父(右近の祖父)・葛山播磨守信貞は、信玄の祖父・武田信縄の弟である油川信恵の実子で、その妻(右近の祖母)は武田信玄の妹(信豊にとっては叔母)であるため、こうした血縁関係や姻戚関係もあって武田氏に仕えるに至ったのかもしれない。

※ちなみに『一本武田系図』では信玄の妹に葛山播磨守信貞の妻なる人は確認出来ない。

  

たとえ右近が武田氏の血縁を引いていなかったとしても、叔父ないし兄である御宿友綱が若くして武田氏に仕えていたのは確かなようであるし、『葛山御宿系図』及び『葛山家譜』では友綱の母が跡部氏出身であることは共通しているため、友綱の弟ないし甥である右近の母ないし祖母も跡部氏だった可能性が高く、これらの縁を辿って友綱と共に、あるいは友綱の跡を追う形で武田氏に仕えることになったとも考えられる。

 

いずれにしても、近親者の縁で武田氏に仕えることになったのではないだろうか。

駿東葛山氏は永禄11年(1568)12月の武田氏の駿河侵攻の際に主家の今川氏から離反しているが、右近らはこれ以前から武田氏に仕えていたのではないかと思われる。

 

元亀4年(1573)、葛山氏元及びその一族が悉く(『松平記』のみ「一門五人」)諏訪湖で処刑されているが、右近はこの時処刑を免れている。

『葛山家譜』に基づくならば、右近氏元の甥にあたるため、処刑されていても不思議ではないのだが、この時既に右近武田信豊に仕えており、氏元らとは距離をとっていたため、処刑を免れたと考えることも出来るかもしれない。

右近の近親者である御宿友綱も処刑されていないばかりか、氏元の娘婿となって葛山氏を継承した信玄の六男・葛山十郎信貞の陣代(後見役)を務めている。

それを考えると、この頃葛山一族内部でも親武田派と反武田派で分かれていたのではないかと思われる。そして当主葛山氏元ら反武田派が一掃されたことで、葛山氏は名実共に親武田体制で固められたと見ることも出来るだろう。

 

いずれにしても、甲州征伐で討死する以前の右近の動向については特に記録がないため、上述したものも各系図に基づいた上での想像や憶測の域を出るものではないことは付言しておく。

 

右近の最期については『甲乱記』に詳しい。

武田信豊は主君である武田勝頼と離別した後、信濃小諸城へと落ち延びた(Wikipediaによればこの時信豊に従う家臣は20騎程だったとされる)。城代の下曾根浄喜は「城を明け渡し、自分達は二・三曲輪に出ていく」と伝えたが、下曾根は城を明け渡すことなく反逆した。

信豊は自分の運命を嘆き、「この上は城中に攻め入り尋常に討死せん」と家臣に下知し、自ら真っ先に立って突撃した。右近甘利右衛門を始めとした金石のような義心を持つ家臣達は刃を並べて城中を急襲し、突然の事で城中は大混乱に陥った。堀の下から堀の内側へ逃げる者を右近らは追い詰めて斬り殺し、その数数百人を討ち取ったとされる。

この戦闘で右近は討死、信豊も家族や家臣と共に自害したという。信豊の命日は『信長公記』では天正10年(1582)3月16日、『武田源氏一流系図』では3月12日というから、右近が戦死したのもこの頃であったと思われる。

右近の享年については不明だが、友綱の甥であるとすれば10代後半~20代前半、友綱の弟であるとすれば20代後半~30代半ばであったと推測される。

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右近及び信豊が戦没した小諸城wikiより)

 

●子孫

熱海市の子孫に伝わる家譜及びその伝承によれば、右近討死の際にその子・葛山吉右衛門貞芳右近の弟・葛山貞植及びその家臣数人は逃れて山中に数年間潜伏。再起を図り軍資金を調達して下総国(千葉県)下金原(千葉県匝瑳市金原)の林中に潜んでいたが、徳川幕府が天下統一を成し遂げたため、農業を志して官に請願して地を獲得し、盛んに未墾の土地を開拓したり、道路を修理して木下街道を整えたりしていたという。

この子孫の家には、明治の頃まで武具や旗指物が残っていたと伝わっている。

 

〇参考文献等

・『裾野市史』第2巻

・『中世系図集』(『裾野市史』第2巻付録)

・『系図綜覧』第1巻

・「歴史随想 葛山氏といわれる人々」(『裾野市史研究』第2号)

・『ふるさと百話』第3巻

・その他(Wikipedia