ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

葛山氏人物列伝:葛山十郎信貞

●諱・通称

『大森葛山氏系図』、『葛山家譜』、『葛山御宿系図』、『武田源氏一流系図』という全ての系図で「信貞」という諱が共通しており、『大森葛山氏系図』、『葛山家譜』、『武田源氏一流系図』という殆どの系図で「十郎」という通称も共通しており、当時の史料上にもこれらは見受けられる。

『大森葛山氏系図』は「義久」と号したとしており、葛山氏の菩提寺である仙年寺に伝わる信貞の位牌の裏面にも「葛山十郎源義久武田信貞」とあり、複数の『武田系図』においても「義久」とあるが、当時の史料上では確認出来ない。

なお、『武田源氏一流系図』は「イ本義久ト有ハ非也」としている。

「義久」を名乗ったとすれば、「義」は足利将軍家偏諱であったと思われるが、信貞は後述するように元亀3年(1572)には「信貞」

 

また、『大森葛山氏系図』は「義貞」を名乗ったとしているが、これは「信貞」の誤記と思われる。

通称を「次郎」(『葛山御宿系図)、「三郎」(先哲叢談』・『武田三代軍記』・『寛永諸家系図伝)、「六郎」(『武田系図』・『甲斐国志』・『甲陽軍鑑』・『』)、「七郎」(『武田系図)、「八郎」(『古画美考』)とするものもあるが、いずれも系図や軍記物等の後世の編纂物によるもので、当時の史料上では確認出来ない。

なお、森銑三によれば始め六郎を名乗り後に十郎と称したというが、何を典拠にしてのものかは不明である。このような仮名の変遷は想定し難いものがある。

 

●出自及び親族

『大森葛山氏系図』、『葛山家譜』、『葛山御宿系図』、『武田源氏一流系図』で武田信玄(1521-1573)の子であることが共通しており、『葛山家譜』は信玄の六男としている。

後世の編纂物や系図の中には三男となっていたり(通称を「三郎」とするものは大抵三男としている)、五男となっていたり、七男となっていたりするものもあるが、他の兄弟との整合性等を考えた場合、六男と考えるのが妥当である。

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武田信玄wikiより)

母は油川氏の娘(油川夫人)であるが、その出自については諸説あるが、油川信恵の子である油川源左衛門信友の娘と考えられており、元亀2年(1571)に享年44で亡くなっている。逆算すると享禄元年(1528)生まれである。 

信貞の兄弟は上から順に武田義信(1538-1567)、海野信親(1541-1582)、武田信之(1543-1553?)、黄梅院(北条氏政正室(1543-1569)、武田勝頼(1546-1582)、見性院穴山梅雪正室(?-1622)、理姫木曽義昌正室(1550-1647)、桃由童女(1553?-1558)、仁科盛信(1557?-1582)、菊姫上杉景勝正室(1558-1604)、松姫(1561-1616)、武田信清(1560/63-1642)。

この内、同腹の兄弟は仁科信盛菊姫松姫

なお信盛信貞の間に望月六郎を挟む『武田系図』も存在する(この系図では信貞の通称は七郎である)。これはおそらく真田十勇士の一人の望月六郎と思われるが、明確なる脚色である。

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仁科盛信wikiより)

裾野市史』第9巻は「母は武田信虎妹とも」としているが、これは同姓同名の別人である『武田源氏一流系図』に記載のある葛山播磨守信貞のことだろう。

 

●生涯

信貞の生年については諸系図でも特に記されておらず、『葛山家譜』は「天正十年三月於信州兵死、歳十七」あるため、これを逆算すると永禄9年(1566)生まれになるが、『裾野市史』第9巻の編者は「容易に信じがたい」という。

Wikipediaでは「永禄2年(1559年)以前の出生と推定されている」とあるが、これは1557年生まれとされる兄の仁科盛信と、1560年生まれとされる弟の武田信清との整合性を考慮した上で言っていると思われる。

葛山氏の菩提寺・仙年寺にある信貞の位牌には裏面に天正十年三月廿四日廿四歳」とあるため、逆算すると永禄2年(1559)生まれということになる。

特に有力な反証がなされない限り、信貞は永禄2年(1559)生まれと考えてよいと思われる。

信玄数え38歳、母油川夫人数え32歳(もしくは23歳)の時の子ということになる。

 

『大森葛山系図』によれば、永禄11年(1568)に信玄が武田氏と今川氏の同盟である甲駿同盟を破棄して駿河侵攻を開始した際、今川氏に属していた葛山備中守氏元(1520-1573)は「謀反すれば駿府の主にする」という約束を信玄と結び、武田氏へ離反。

しかし、忠賞がないために氏元は諏訪在番の時に後北条氏と内通して一族と共に反乱を企てたとされ、一族共々諏訪湖で処刑された。同様の内容は『今川家譜』『甲乱記』『松平記』にも見られる。

葛山氏の与力・同心達は助けられ、氏元の娘の下に置かれた。氏元の娘は処刑されなかったようである。

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諏訪湖wikiより)

この後、信玄信貞氏元の娘婿に据え、信貞葛山十郎と号して葛山氏の名跡を継がせたという。尤も、これは信玄が信濃侵攻の際に服従させた信濃の名族に実子を送り込んで名跡を継がせて懐柔させた(信玄四男・勝頼は当初諏訪氏を継承、五男・盛信は仁科氏を継承)支配方針と同様であるとされる。

『武田源氏一流系図』でも、葛山備中守元氏(氏元の誤記)に「女子二人」とし、「一人ハ葛山十郎信貞妻也」とあり、信貞の部分にも「駿州葛山備中守元氏養子、有元氏一女嫁之」とある。

信貞の妻の名前は、吉田兼右の日記から「おふち」と判明している。おふちは永禄9年(1566)12月5日時点で14歳、逆算して天文22年(1553)ということになり、信貞よりも6歳年長だったことになる。

なお、氏元処刑の後に十五歳だった氏元の長女が「葛山姓を残したい」という想いに感じ入った信玄信貞を婿養子に据えて葛山氏を名乗らせ、氏元の二女は瀬名信真の妻となったという話がある。

確かに、『武田源氏一流系図』では氏元(元氏)の「女子二人」のもう一人は「瀬名中務大輔信真妻」とあり、先述したおふちの姉として天文14年(1545)生まれの「はやち」がいるが、「はやち」はこの時15歳ではなく、20代後半である。

そしてこのはやち瀬名信真の妻になったと考えられているし、またこれがおふちのことであったとしても、氏元が処刑された時数え21歳であり、15歳ではない。

いずれにしても信貞氏元の娘婿となって葛山氏を継承したということは、研究者の間でも見解の一致している部分である。

 

なお、『葛山家譜』では葛山播磨守綱春の三男で、初代・葛山維兼から数えて19代目に当たる御宿友綱の養子となり、友綱はこの信貞名跡と葛山の本領を譲ったとされる。

『葛山御宿系図』では葛山備中守春吉(1445-1516)の長男で、初代・葛山惟兼から数えて14代目に当たる葛山備中守惟長が死去した後、一子もなかったため信玄信貞に継がせたとなっている。

しかしながら、これらはおそらく誤伝と思われる。

富士大宮司葛山某の養子となったとする伝承もあるが、富士大宮司の任を務めた人物に葛山甚左衛門という人はおれど、信貞の養父であることが間違いないとされる葛山氏元が富士大宮司となったことは確認出来ない。何かしらの誤伝と思われる。 

葛山備中守勝嘉の養子になったとするものもあるが、勝嘉氏元なのかは定かではない。

 

当時の史料における信貞の初出は、永禄10年(1567)3月7日付の武田信玄の判物である。

その内容は御宿友綱葛山氏元の本領を預け、信貞が幼少の間は軍代(後見役)を命じるというものだが、この文書は「氏元」を「元氏」としており、「元氏」と記されるものは後世に記されたものにしか見られず(当時の確実な史料は全て「氏元」)、翌年の駿河侵攻以前に氏元が武田氏に与していたというのも他の記録と整合性がとれないため、系図類を元にして偽造された可能性が高いものと考えられている。

 

元亀3年(1572)5月11日付武田信玄の判物が確実な初出とされ、 その内容は見性寺が御宿友綱の所領となってしまったため、替りに葛山信貞と談合」の上でその直轄地から寺領を寄進するといった内容だった。

氏元諏訪湖で処刑されたのは、『仏眼禅師語録』所収の漢詩から元亀4年(1573)2月末とされているため、信貞氏元の娘婿となって葛山氏を継承したのは、系図等が言うように氏元の死後ではなく、氏元の生前のことだったと思われる。

尤も氏元は立場上これを承諾したとは考えにくいため、この時氏元は先述したような陰謀が露見して幽閉の身にあったのではないかと思われる。

氏元の死によって、武田氏の葛山氏乗っ取りは完遂した。

 

葛山氏を継承した当時の信貞はまだ10代前半程度であったため、葛山一族の出身で若くして武田信玄に仕えていた御宿友綱が陣代(後見役)を務めた。先述の永禄10年(1567)の信玄の判物は偽造された可能性が高いとしたものの、友綱信貞の陣代となったことは『武田源氏一流系図』の御宿友綱の部分に「葛山十郎信貞軍代(※陣代と同義)」、信貞の部分に「幼少之間御宿監物軍代」とあるため、確かなようである。

しかしながら、葛山領での発給文書は信玄・勝頼の判物が多く、現地で政務を代行したとされる御宿友綱の文書も多くみられることから、信貞葛山城ではなく甲府にあり、支配も安定的ではなかった可能性を指摘されているという。

 

御宿友綱の覚書とされるものによれば、元亀4年(1573)4月12日に父信玄が死亡すると、その葬儀において御供衆二番として、葛山十郎信貞の名前で父の位牌をささげたとある。

信貞の発給文書については、天正6年(1578)と推定される8月23日付の上杉景勝宛の書状が残っており、その内容は御館の乱上杉謙信の後継を巡る内紛)和平に対する主君・武田勝頼祝意を伝えたものである。

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武田勝頼wikiより)

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上杉景勝wikiより)

『甲乱記』によれば、織田信長による甲州征伐が行われた天正10年(1582)3月、甲斐善光寺において小山田信茂(1539?-1582)と共に「指殺」(刺殺)と記されているが、これは処刑の意味と思われる。

 

『大森葛山氏系図』によると、信貞は兄であり主君である武田勝頼に逆心を起こして勝頼を滅ぼしたが、天正10年(1582)3月に甲斐善光寺において自らも誅されたという。

信貞の陣代を務めた御宿友綱の妹婿とされる小山田信茂と、同じくその妹婿で信貞の従兄でもある武田信堯(1554-1582)は武田氏を離反していること、信茂信堯善光寺において処刑されたと言われていること、先述の『大森葛山系図』の記述等を併せて考えると、信貞信茂信堯と共に勝頼を裏切ったというのは考えにくい話ではない。

 

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信貞が最期を迎えたとされる甲斐善光寺wikiより)

 

信貞と共に甲斐善光寺で処刑されたという小山田信茂菩提寺である長生寺は、過去帳において天正十壬午年三月二十四日」信茂の命日を伝えており、葛山氏の菩提寺・仙年寺にある信貞の位牌も天正十年三月廿四日」信貞の命日を3月24日としている。位牌によれば信貞は享年24。

地元の裾野市葛山では、信貞善光寺に向かう道中で徳川家康によって殺されたという伝承が伝わっている。

 

信貞の戒名は仙年寺の位牌では「陽春院殿瑞香浄薫大居士」(瀧口源太郎系図では「」ではなく「」となっている)。

複数の『武田系図』では「陽春院瑞香浄英大禅定門」。『大森葛山系図』では大禅定門の部分が省略されている。

 

仙年寺の近くにある葛山氏墓所の門には、最後の葛山氏当主である信貞にちなんでか武田菱の紋が入っており、この整備には武田氏縁の人々が携わったといわれている。

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葛山氏墓所wikiより)

 

●子孫

『武田源氏一流系図』やその系統本によれば、信貞の子に御宿源左衛門貞友なる人がおり、御宿友綱の子である御宿勘兵衛政友(1567-1615)に従って豊臣方として大坂の陣(1614-1615)を戦った。貞友政友の猶子となっていたという。そのため御宿姓なのだろう。猶父である政友はこの戦いで戦死した。

※『摂戦実録』は御宿政友信貞の実子で御宿友綱の養子になったと伝えているが、信貞の生年は先述したように永禄2年(1559)とされ、政友の生年は永禄10年(1567)とされているため、この通りだとすれば信貞が数え9歳の時の子ということになるため、あり得ないと思われる。

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大坂の陣wikiより)

戦後、貞友は2代目福岡藩主の黒田忠之(1602-1654)に仕え、後剃髪して葛山信哲斎と号して、延宝元年(1673)に「八十有余」で病死したとされる。

しかし、貞友が没した時に満年齢が80代であったとすれば、少なくとも1584年以降の生まれになり、信貞の子ということは考えにくい。

事実とすれば90代であったか、あるいは没年がそもそも間違っているかといったところであろう。なお、『武田源氏一流系図』は没年を記していない。

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黒田忠之wikiより)

  

また、文化13年(1816)に刊行された『先哲叢談』によれば、天目山の戦いの際に信貞は弟の武田勝頼と不和になり姓名を変じて民間に隠れ、信貞の第三子(4人の子があったという)である義定桂山三郎左衛門と称して桂山氏を起こしたという。その玄孫は桂山三郎左衛門義樹(1679-1749)という儒者で、義樹の時に幕臣として仕えたようである。

家紋は所謂「武田菱」の割菱と花菱を用いた。

 

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左:割菱、右:花菱 

 

また、黄檗宗の尼僧である了然(1646-1711)は信貞の曾孫で信玄の玄孫という。了然の事績が記された諸書に基づくと以下の通りである。

信貞の嫡男に葛山宮内久敬(幼名・亀丸)という人があり、武田滅亡の時に8歳だった久敬は京都の龍安寺塔頭清源院の僧侶・独英の才覚で甲斐を立ち退き、奈良の一条院の弟子となった。後に還俗し豊臣秀吉に仕えて聚楽第に居住し、晩年は現在の京都府東山区に閑居して慶長12年(1612)3月14日、38歳で病死した。

逆算すると久敬天正3年(1575)生まれということになる。父信貞数え17歳の時の子であり、母はおそらくはおふちだろう。おふちはこの時数えで23歳である。

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聚楽亭(wikiより)

久敬の子(信貞の孫)である葛山内記為久(1600-1673、幼名を鍋太郎、別称を長二郎、また長爾・鉄斎と号す)は、京都下京の泉湧寺門前に閑居して茶事・古書の鑑定や能書をし、「絵見の長爾」と呼ばれた。

為久信貞の子とするものがあるが誤りと思われる

為久には2人の息子がいたが2人とも出家し、娘(信貞の曾孫)の総(※ふさ)東福門院に仕えた。その後、伊勢国出身の医師・松田晩翠(1630-1703)に嫁ぎ二男三女をもうけたが、27歳の時に妾を置いて離縁。出家して了然を称した。その後江戸に下り、白翁道泰に入門を請うも美貌の為に入門を許されず、顔を焼いて決意を示し入門を許されたという話が伝わっている。

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了然

了然の長男(信貞の玄孫)である泰久(1665-1731)は、祖父である葛山為久の養子となって葛山六郎右衛門と称し、寛文13年(1673)4月25日に為久が74歳で没するとその跡を相続し、後に儒家として紀伊徳川家に仕えた。

泰久の跡は二男である葛山十郎左衛門泰栄(?-1804)が継いだが、泰栄の長男及び次男は家を継がず、迎え入れた養子も不心得者であったため離縁し、新たに尾張藩士・高山庄左衛門の弟を養子に迎え、養子は葛山六郎左衛門維久(1764-1843)を名乗って泰栄の跡を継いだという。

 

〇参考文献等

・『裾野市史』第2巻、第9巻

・『中世系図集』(『裾野市史』第2巻付録)

・「歴史随想 葛山氏といわれる人々」(『裾野市史研究』第2号)

・『武田家の女性達』篝佐代著

・『武田信虎』平山優著

・『続群書類従

・『南紀徳川史』

・その他(Wikipedia等)