ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

葛山氏人物列伝:葛山十郎信貞

●諱・通称

『大森葛山氏系図』、『葛山家譜』、『葛山御宿系図』、『武田源氏一流系図』という全ての系図で「信貞」という諱が共通しており、『大森葛山氏系図』、『葛山家譜』、『武田源氏一流系図』という殆どの系図で「十郎」という通称も共通しており、当時の史料上にもこれらは見受けられる。

『大森葛山氏系図』は「義久」と号したとしており、葛山氏の菩提寺である仙年寺に伝わる信貞の位牌の裏面にも「葛山十郎源義久武田信貞」とあり、複数の『武田系図』においても「義久」とあるが、当時の史料上では確認出来ない。

なお、『武田源氏一流系図』は「イ本義久ト有ハ非也」としている。

「義久」を名乗ったとすれば、「義」は足利将軍家偏諱であったと思われるが、信貞は後述するように元亀3年(1572)には「信貞」

 

また、『大森葛山氏系図』は「義貞」を名乗ったとしているが、これは「信貞」の誤記と思われる。

通称を「次郎」(『葛山御宿系図)、「三郎」(先哲叢談』・『武田三代軍記』・『寛永諸家系図伝)、「六郎」(『武田系図』・『甲斐国志』・『甲陽軍鑑』・『』)、「七郎」(『武田系図)、「八郎」(『古画美考』)とするものもあるが、いずれも系図や軍記物等の後世の編纂物によるもので、当時の史料上では確認出来ない。

なお、森銑三によれば始め六郎を名乗り後に十郎と称したというが、何を典拠にしてのものかは不明である。このような仮名の変遷は想定し難いものがある。

 

●出自及び親族

『大森葛山氏系図』、『葛山家譜』、『葛山御宿系図』、『武田源氏一流系図』で武田信玄(1521-1573)の子であることが共通しており、『葛山家譜』は信玄の六男としている。

後世の編纂物や系図の中には三男となっていたり(通称を「三郎」とするものは大抵三男としている)、五男となっていたり、七男となっていたりするものもあるが、他の兄弟との整合性等を考えた場合、六男と考えるのが妥当である。

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武田信玄wikiより)

母は油川氏の娘(油川夫人)であるが、その出自については諸説あるが、油川信恵の子である油川源左衛門信友の娘と考えられており、元亀2年(1571)に享年44で亡くなっている。逆算すると享禄元年(1528)生まれである。 

信貞の兄弟は上から順に武田義信(1538-1567)、海野信親(1541-1582)、武田信之(1543-1553?)、黄梅院(北条氏政正室(1543-1569)、武田勝頼(1546-1582)、見性院穴山梅雪正室(?-1622)、理姫木曽義昌正室(1550-1647)、桃由童女(1553?-1558)、仁科盛信(1557?-1582)、菊姫上杉景勝正室(1558-1604)、松姫(1561-1616)、武田信清(1560/63-1642)。

この内、同腹の兄弟は仁科信盛菊姫松姫

なお信盛信貞の間に望月六郎を挟む『武田系図』も存在する(この系図では信貞の通称は七郎である)。これはおそらく真田十勇士の一人の望月六郎と思われるが、明確なる脚色である。

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仁科盛信wikiより)

裾野市史』第9巻は「母は武田信虎妹とも」としているが、これは同姓同名の別人である『武田源氏一流系図』に記載のある葛山播磨守信貞のことだろう。

 

●生涯

信貞の生年については諸系図でも特に記されておらず、『葛山家譜』は「天正十年三月於信州兵死、歳十七」あるため、これを逆算すると永禄9年(1566)生まれになるが、『裾野市史』第9巻の編者は「容易に信じがたい」という。

Wikipediaでは「永禄2年(1559年)以前の出生と推定されている」とあるが、これは1557年生まれとされる兄の仁科盛信と、1560年生まれとされる弟の武田信清との整合性を考慮した上で言っていると思われる。

葛山氏の菩提寺・仙年寺にある信貞の位牌には裏面に天正十年三月廿四日廿四歳」とあるため、逆算すると永禄2年(1559)生まれということになる。

特に有力な反証がなされない限り、信貞は永禄2年(1559)生まれと考えてよいと思われる。

信玄数え38歳、母油川夫人数え32歳(もしくは23歳)の時の子ということになる。

 

『大森葛山系図』によれば、永禄11年(1568)に信玄が武田氏と今川氏の同盟である甲駿同盟を破棄して駿河侵攻を開始した際、今川氏に属していた葛山備中守氏元(1520-1573)は「謀反すれば駿府の主にする」という約束を信玄と結び、武田氏へ離反。

しかし、忠賞がないために氏元は諏訪在番の時に後北条氏と内通して一族と共に反乱を企てたとされ、一族共々諏訪湖で処刑された。同様の内容は『今川家譜』『甲乱記』『松平記』にも見られる。

葛山氏の与力・同心達は助けられ、氏元の娘の下に置かれた。氏元の娘は処刑されなかったようである。

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諏訪湖wikiより)

この後、信玄信貞氏元の娘婿に据え、信貞葛山十郎と号して葛山氏の名跡を継がせたという。尤も、これは信玄が信濃侵攻の際に服従させた信濃の名族に実子を送り込んで名跡を継がせて懐柔させた(信玄四男・勝頼は当初諏訪氏を継承、五男・盛信は仁科氏を継承)支配方針と同様であるとされる。

『武田源氏一流系図』でも、葛山備中守元氏(氏元の誤記)に「女子二人」とし、「一人ハ葛山十郎信貞妻也」とあり、信貞の部分にも「駿州葛山備中守元氏養子、有元氏一女嫁之」とある。

信貞の妻の名前は、吉田兼右の日記から「おふち」と判明している。おふちは永禄9年(1566)12月5日時点で14歳、逆算して天文22年(1553)ということになり、信貞よりも6歳年長だったことになる。

なお、氏元処刑の後に十五歳だった氏元の長女が「葛山姓を残したい」という想いに感じ入った信玄信貞を婿養子に据えて葛山氏を名乗らせ、氏元の二女は瀬名信真の妻となったという話がある。

確かに、『武田源氏一流系図』では氏元(元氏)の「女子二人」のもう一人は「瀬名中務大輔信真妻」とあり、先述したおふちの姉として天文14年(1545)生まれの「はやち」がいるが、「はやち」はこの時15歳ではなく、20代後半である。

そしてこのはやち瀬名信真の妻になったと考えられているし、またこれがおふちのことであったとしても、氏元が処刑された時数え21歳であり、15歳ではない。

いずれにしても信貞氏元の娘婿となって葛山氏を継承したということは、研究者の間でも見解の一致している部分である。

 

なお、『葛山家譜』では葛山播磨守綱春の三男で、初代・葛山維兼から数えて19代目に当たる御宿友綱の養子となり、友綱はこの信貞名跡と葛山の本領を譲ったとされる。

『葛山御宿系図』では葛山備中守春吉(1445-1516)の長男で、初代・葛山惟兼から数えて14代目に当たる葛山備中守惟長が死去した後、一子もなかったため信玄信貞に継がせたとなっている。

しかしながら、これらはおそらく誤伝と思われる。

富士大宮司葛山某の養子となったとする伝承もあるが、富士大宮司の任を務めた人物に葛山甚左衛門という人はおれど、信貞の養父であることが間違いないとされる葛山氏元が富士大宮司となったことは確認出来ない。何かしらの誤伝と思われる。 

葛山備中守勝嘉の養子になったとするものもあるが、勝嘉氏元なのかは定かではない。

 

当時の史料における信貞の初出は、永禄10年(1567)3月7日付の武田信玄の判物である。

その内容は御宿友綱葛山氏元の本領を預け、信貞が幼少の間は軍代(後見役)を命じるというものだが、この文書は「氏元」を「元氏」としており、「元氏」と記されるものは後世に記されたものにしか見られず(当時の確実な史料は全て「氏元」)、翌年の駿河侵攻以前に氏元が武田氏に与していたというのも他の記録と整合性がとれないため、系図類を元にして偽造された可能性が高いものと考えられている。

 

元亀3年(1572)5月11日付武田信玄の判物が確実な初出とされ、 その内容は見性寺が御宿友綱の所領となってしまったため、替りに葛山信貞と談合」の上でその直轄地から寺領を寄進するといった内容だった。

氏元諏訪湖で処刑されたのは、『仏眼禅師語録』所収の漢詩から元亀4年(1573)2月末とされているため、信貞氏元の娘婿となって葛山氏を継承したのは、系図等が言うように氏元の死後ではなく、氏元の生前のことだったと思われる。

尤も氏元は立場上これを承諾したとは考えにくいため、この時氏元は先述したような陰謀が露見して幽閉の身にあったのではないかと思われる。

氏元の死によって、武田氏の葛山氏乗っ取りは完遂した。

 

葛山氏を継承した当時の信貞はまだ10代前半程度であったため、葛山一族の出身で若くして武田信玄に仕えていた御宿友綱が陣代(後見役)を務めた。先述の永禄10年(1567)の信玄の判物は偽造された可能性が高いとしたものの、友綱信貞の陣代となったことは『武田源氏一流系図』の御宿友綱の部分に「葛山十郎信貞軍代(※陣代と同義)」、信貞の部分に「幼少之間御宿監物軍代」とあるため、確かなようである。

しかしながら、葛山領での発給文書は信玄・勝頼の判物が多く、現地で政務を代行したとされる御宿友綱の文書も多くみられることから、信貞葛山城ではなく甲府にあり、支配も安定的ではなかった可能性を指摘されているという。

 

御宿友綱の覚書とされるものによれば、元亀4年(1573)4月12日に父信玄が死亡すると、その葬儀において御供衆二番として、葛山十郎信貞の名前で父の位牌をささげたとある。

信貞の発給文書については、天正6年(1578)と推定される8月23日付の上杉景勝宛の書状が残っており、その内容は御館の乱上杉謙信の後継を巡る内紛)和平に対する主君・武田勝頼祝意を伝えたものである。

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武田勝頼wikiより)

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上杉景勝wikiより)

『甲乱記』によれば、織田信長による甲州征伐が行われた天正10年(1582)3月、甲斐善光寺において小山田信茂(1539?-1582)と共に「指殺」(刺殺)と記されているが、これは処刑の意味と思われる。

 

『大森葛山氏系図』によると、信貞は兄であり主君である武田勝頼に逆心を起こして勝頼を滅ぼしたが、天正10年(1582)3月に甲斐善光寺において自らも誅されたという。

信貞の陣代を務めた御宿友綱の妹婿とされる小山田信茂と、同じくその妹婿で信貞の従兄でもある武田信堯(1554-1582)は武田氏を離反していること、信茂信堯善光寺において処刑されたと言われていること、先述の『大森葛山系図』の記述等を併せて考えると、信貞信茂信堯と共に勝頼を裏切ったというのは考えにくい話ではない。

 

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信貞が最期を迎えたとされる甲斐善光寺wikiより)

 

信貞と共に甲斐善光寺で処刑されたという小山田信茂菩提寺である長生寺は、過去帳において天正十壬午年三月二十四日」信茂の命日を伝えており、葛山氏の菩提寺・仙年寺にある信貞の位牌も天正十年三月廿四日」信貞の命日を3月24日としている。位牌によれば信貞は享年24。

地元の裾野市葛山では、信貞善光寺に向かう道中で徳川家康によって殺されたという伝承が伝わっている。

 

信貞の戒名は仙年寺の位牌では「陽春院殿瑞香浄薫大居士」(瀧口源太郎系図では「」ではなく「」となっている)。

複数の『武田系図』では「陽春院瑞香浄英大禅定門」。『大森葛山系図』では大禅定門の部分が省略されている。

 

仙年寺の近くにある葛山氏墓所の門には、最後の葛山氏当主である信貞にちなんでか武田菱の紋が入っており、この整備には武田氏縁の人々が携わったといわれている。

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葛山氏墓所wikiより)

 

●子孫

『武田源氏一流系図』やその系統本によれば、信貞の子に御宿源左衛門貞友なる人がおり、御宿友綱の子である御宿勘兵衛政友(1567-1615)に従って豊臣方として大坂の陣(1614-1615)を戦った。貞友政友の猶子となっていたという。そのため御宿姓なのだろう。猶父である政友はこの戦いで戦死した。

※『摂戦実録』は御宿政友信貞の実子で御宿友綱の養子になったと伝えているが、信貞の生年は先述したように永禄2年(1559)とされ、政友の生年は永禄10年(1567)とされているため、この通りだとすれば信貞が数え9歳の時の子ということになるため、あり得ないと思われる。

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大坂の陣wikiより)

戦後、貞友は2代目福岡藩主の黒田忠之(1602-1654)に仕え、後剃髪して葛山信哲斎と号して、延宝元年(1673)に「八十有余」で病死したとされる。

しかし、貞友が没した時に満年齢が80代であったとすれば、少なくとも1584年以降の生まれになり、信貞の子ということは考えにくい。

事実とすれば90代であったか、あるいは没年がそもそも間違っているかといったところであろう。なお、『武田源氏一流系図』は没年を記していない。

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黒田忠之wikiより)

  

また、文化13年(1816)に刊行された『先哲叢談』によれば、天目山の戦いの際に信貞は弟の武田勝頼と不和になり姓名を変じて民間に隠れ、信貞の第三子(4人の子があったという)である義定桂山三郎左衛門と称して桂山氏を起こしたという。その玄孫は桂山三郎左衛門義樹(1679-1749)という儒者で、義樹の時に幕臣として仕えたようである。

家紋は所謂「武田菱」の割菱と花菱を用いた。

 

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左:割菱、右:花菱 

 

また、黄檗宗の尼僧である了然(1646-1711)は信貞の曾孫で信玄の玄孫という。了然の事績が記された諸書に基づくと以下の通りである。

信貞の嫡男に葛山宮内久敬(幼名・亀丸)という人があり、武田滅亡の時に8歳だった久敬は京都の龍安寺塔頭清源院の僧侶・独英の才覚で甲斐を立ち退き、奈良の一条院の弟子となった。後に還俗し豊臣秀吉に仕えて聚楽第に居住し、晩年は現在の京都府東山区に閑居して慶長12年(1612)3月14日、38歳で病死した。

逆算すると久敬天正3年(1575)生まれということになる。父信貞数え17歳の時の子であり、母はおそらくはおふちだろう。おふちはこの時数えで23歳である。

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聚楽亭(wikiより)

久敬の子(信貞の孫)である葛山内記為久(1600-1673、幼名を鍋太郎、別称を長二郎、また長爾・鉄斎と号す)は、京都下京の泉湧寺門前に閑居して茶事・古書の鑑定や能書をし、「絵見の長爾」と呼ばれた。

為久信貞の子とするものがあるが誤りと思われる

為久には2人の息子がいたが2人とも出家し、娘(信貞の曾孫)の総(※ふさ)東福門院に仕えた。その後、伊勢国出身の医師・松田晩翠(1630-1703)に嫁ぎ二男三女をもうけたが、27歳の時に妾を置いて離縁。出家して了然を称した。その後江戸に下り、白翁道泰に入門を請うも美貌の為に入門を許されず、顔を焼いて決意を示し入門を許されたという話が伝わっている。

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了然

了然の長男(信貞の玄孫)である泰久(1665-1731)は、祖父である葛山為久の養子となって葛山六郎右衛門と称し、寛文13年(1673)4月25日に為久が74歳で没するとその跡を相続し、後に儒家として紀伊徳川家に仕えた。

泰久の跡は二男である葛山十郎左衛門泰栄(?-1804)が継いだが、泰栄の長男及び次男は家を継がず、迎え入れた養子も不心得者であったため離縁し、新たに尾張藩士・高山庄左衛門の弟を養子に迎え、養子は葛山六郎左衛門維久(1764-1843)を名乗って泰栄の跡を継いだという。

 

〇参考文献等

・『裾野市史』第2巻、第9巻

・『中世系図集』(『裾野市史』第2巻付録)

・「歴史随想 葛山氏といわれる人々」(『裾野市史研究』第2号)

・『武田家の女性達』篝佐代著

・『武田信虎』平山優著

・『続群書類従

・『南紀徳川史』

・その他(Wikipedia等)

葛山氏人物列伝:葛山右近氏友

●諱・通称

『葛山家譜』では諱を信次、『武田源氏一流系図』及び熱海市の子孫に伝わる家譜では氏友。葛山氏当主の氏広氏元と2代連続で「氏」を踏襲しており、氏元の実父とされる葛山播磨守貞氏と「氏」を含んでおり、後述するように右近の近親者にこれらの人がいるのかもしれない。

通称の「右近」は近世初期成立の『甲乱記』、『葛山家譜』、『武田源氏一流系図』、子孫に伝わる家譜で共通している。

 

●出自及び親族

右近は葛山氏の系図では、『葛山家譜』と『武田源氏一流系図』にその名前を見つけることが出来る。いずれにしても駿東葛山氏の一族出身であることは確かなようだが、この2つの系図でも異同が激しい。

 

『葛山家譜』では、葛山氏の初代・葛山次郎太夫維兼から数えて18代目である葛山但馬守隆綱の二男・葛山播磨守綱春の四男となっている。綱春の妻は跡部越中の娘。長兄は東陽軒、次兄は御宿修理亮綱遠、三兄に御宿友綱がいる。妹に武田信堯妻

伯父に説斎、叔父に葛山備中守元氏(氏元の誤記)御宿藤七郎綱清がいる。

説斎は「臨済寺住侶、達武略、今川義元之隊将也」とあり、今川義元の軍師・太原雪斎のことを指していると思われるが、雪斎の出身は庵原氏であり、脚色である。

綱春は「与義元及鉾楯而交戦、終為義元死、笠寺籠城五人之内、最得武名」とあるため、桶狭間の戦い(1560年)で戦死したものと思われる。なお、『葛山家譜』に記載のある家伝によれば、「綱春為義元被討了」と今川義元によって討たれたとも解釈できる記載がある。これは『葛山御宿系図』の記載と相通じるものがあるかもしれないが、ここでは検討は避ける。

綱春の妻は跡部越中の娘とあるが、跡部越中とは跡部泰忠(生没年不詳)のことと思われる。

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『葛山御宿系図』では御宿友綱の父は葛山播磨守綱治(1523~1557)で、その父は葛山但馬守惟治(1471-1539)となっている。綱治の妻は跡部越中の妹。wikiでは跡部泰忠の妹となっているが典拠不明。年代を考えればその子息勝忠の妹(1520-1582)と思われるが確証はない。

この二人は仙年寺過去帳に記載があり、位牌が現存する。この系図では友綱綱治の兄弟の記載はなく、右近の記載もない。

綱治桶狭間の合戦に先立つこと3年前の弘治3年(1557)4月7日に、主君である今川義元に攻められて妻子共々自刃している。御宿友綱はこの復讐の為に密かに駿河国を脱して伯父である跡部越中守勝忠に身を寄せ、武田信玄に仕えることになったという。

 

『武田源氏一流系図』では、葛山播磨守信貞(1560年の桶狭間の戦いで戦死か)の嫡男・御宿左衛門佐信名の子となっている。信貞の妻は武田信玄の妹。叔父に御宿友綱、叔母に小山田信茂武田信堯妻がいる。この系図では右近の兄弟は記されていない。

『一本武田系図』においても、油川信恵の子に信貞信友の記載があるが、他の兄弟の記載はない。また信貞の子として信名の記載があるが、こちらも他の兄弟の記載がない。省略されているだけの可能性もある。この系図では信連信友の子になっている。

祖父にあたる葛山播磨守信貞は「属今川義元、在城尾州笠寺」とある。これは桶狭間の合戦(1560年)の時であり、この戦いで葛山安房守元清と共に戦死したと尾張高徳院過去帳にある。

父の信名右近出生の際に既に御宿を名乗っていたのか、右近出生の後で御宿を名乗ったのかは定かではないが、いずれにしても右近自身が御宿を称した記録は確認できない。

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以上、右近の記載のある『武田源氏一流系図』と『葛山家譜』では、右近の近親者の直系尊属葛山播磨守とその弟に御宿藤七郎、近親者の傍系血族に御宿友綱武田信堯妻がいることが共通している。

 

熱海市の子孫に伝わる家譜では、右近の弟に葛山貞植なる人がいたとされる。

 

●生涯

叔父もしくは兄である御宿友綱が1546年頃の生まれであることから、少なくとも天文16年(1547)以降の生まれであることは間違いない早くてもこの天文(1532-1555)中、遅くとも永禄(1558-1570)中には出生していると思われる。

 

右近の経歴については不明で、『葛山家譜』に「与武田相模守信豊同討死」、『武田源氏一流系図』に天正十年、与武田相州一処打死」「天正十年(略)葛山右近氏友、甘利右衛門打死」とあるだけである(これらの系図の記述は後述する『甲乱記』に基づいたものだろう)。

 

つまり甲斐武田氏武田相模守信豊(1549-1582)に与して討死し、これは天正10年(1582)のことであったことが窺える。右近信豊に仕えていたということだろう。信豊武田信玄(1521-1573)の長弟・武田信繁(1525-1561)の子で、信玄の跡を継いだ武田勝頼(1546-1582)の従弟にあたる。

この年に織田信長(1534-1582)が嫡男・織田信忠(1557-1582)を大将として甲州征伐を行ない、武田氏を滅ぼしている。

 

では右近信豊に仕えるに至った経緯は何なのだろうか。

『武田源氏一流系図』によると、右近の父・信名は「始属義元」とあるから、信名の時に今川氏から武田氏に仕えたのではないかと思われる。

信名の父(右近の祖父)・葛山播磨守信貞は、信玄の祖父・武田信縄の弟である油川信恵の実子で、その妻(右近の祖母)は武田信玄の妹(信豊にとっては叔母)であるため、こうした血縁関係や姻戚関係もあって武田氏に仕えるに至ったのかもしれない。

※ちなみに『一本武田系図』では信玄の妹に葛山播磨守信貞の妻なる人は確認出来ない。

  

たとえ右近が武田氏の血縁を引いていなかったとしても、叔父ないし兄である御宿友綱が若くして武田氏に仕えていたのは確かなようであるし、『葛山御宿系図』及び『葛山家譜』では友綱の母が跡部氏出身であることは共通しているため、友綱の弟ないし甥である右近の母ないし祖母も跡部氏だった可能性が高く、これらの縁を辿って友綱と共に、あるいは友綱の跡を追う形で武田氏に仕えることになったとも考えられる。

 

いずれにしても、近親者の縁で武田氏に仕えることになったのではないだろうか。

駿東葛山氏は永禄11年(1568)12月の武田氏の駿河侵攻の際に主家の今川氏から離反しているが、右近らはこれ以前から武田氏に仕えていたのではないかと思われる。

 

元亀4年(1573)、葛山氏元及びその一族が悉く(『松平記』のみ「一門五人」)諏訪湖で処刑されているが、右近はこの時処刑を免れている。

『葛山家譜』に基づくならば、右近氏元の甥にあたるため、処刑されていても不思議ではないのだが、この時既に右近武田信豊に仕えており、氏元らとは距離をとっていたため、処刑を免れたと考えることも出来るかもしれない。

右近の近親者である御宿友綱も処刑されていないばかりか、氏元の娘婿となって葛山氏を継承した信玄の六男・葛山十郎信貞の陣代(後見役)を務めている。

それを考えると、この頃葛山一族内部でも親武田派と反武田派で分かれていたのではないかと思われる。そして当主葛山氏元ら反武田派が一掃されたことで、葛山氏は名実共に親武田体制で固められたと見ることも出来るだろう。

 

いずれにしても、甲州征伐で討死する以前の右近の動向については特に記録がないため、上述したものも各系図に基づいた上での想像や憶測の域を出るものではないことは付言しておく。

 

右近の最期については『甲乱記』に詳しい。

武田信豊は主君である武田勝頼と離別した後、信濃小諸城へと落ち延びた(Wikipediaによればこの時信豊に従う家臣は20騎程だったとされる)。城代の下曾根浄喜は「城を明け渡し、自分達は二・三曲輪に出ていく」と伝えたが、下曾根は城を明け渡すことなく反逆した。

信豊は自分の運命を嘆き、「この上は城中に攻め入り尋常に討死せん」と家臣に下知し、自ら真っ先に立って突撃した。右近甘利右衛門を始めとした金石のような義心を持つ家臣達は刃を並べて城中を急襲し、突然の事で城中は大混乱に陥った。堀の下から堀の内側へ逃げる者を右近らは追い詰めて斬り殺し、その数数百人を討ち取ったとされる。

この戦闘で右近は討死、信豊も家族や家臣と共に自害したという。信豊の命日は『信長公記』では天正10年(1582)3月16日、『武田源氏一流系図』では3月12日というから、右近が戦死したのもこの頃であったと思われる。

右近の享年については不明だが、友綱の甥であるとすれば10代後半~20代前半、友綱の弟であるとすれば20代後半~30代半ばであったと推測される。

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右近及び信豊が戦没した小諸城wikiより)

 

●子孫

熱海市の子孫に伝わる家譜及びその伝承によれば、右近討死の際にその子・葛山吉右衛門貞芳右近の弟・葛山貞植及びその家臣数人は逃れて山中に数年間潜伏。再起を図り軍資金を調達して下総国(千葉県)下金原(千葉県匝瑳市金原)の林中に潜んでいたが、徳川幕府が天下統一を成し遂げたため、農業を志して官に請願して地を獲得し、盛んに未墾の土地を開拓したり、道路を修理して木下街道を整えたりしていたという。

この子孫の家には、明治の頃まで武具や旗指物が残っていたと伝わっている。

 

〇参考文献等

・『裾野市史』第2巻

・『中世系図集』(『裾野市史』第2巻付録)

・『系図綜覧』第1巻

・「歴史随想 葛山氏といわれる人々」(『裾野市史研究』第2号)

・『ふるさと百話』第3巻

・その他(Wikipedia

 

三重県・葛山一族のルーツ④「仮説・治田の葛山・総論」

さて、伝承や資料を紹介してきましたが、やはり伝承や文献によって内容に異同があることは否めません。

しかし、 1つ1つまとめていくと次のような可能性を見出すことができます。

 

桶狭間の合戦で敗れて土着したという伝承がある一方で、駿河侵攻時に葛山豊後守政続の名前があることから、政続の一党が四日市に土着したとすればこれ以後の可能性があること(政続自体は系図に「永禄頃の人」とあるから、この戦いで戦死したのかもしれない)

・「三重と長野に落ち武者として逃れている」という葛山宗家の伝承から、永禄11(1568)年の駿河侵攻時には葛山氏元の一党と葛山政続の一党は別行動をとった可能性が高いこと

・一族は船で三重県に落ち延びたという伝承があることから、駿河侵攻時の「井之上八木間合戦」で横山陣を引き払う際に、駿河湾まで注ぐ付近の興津川から落ち延びた可能性があること

・『沿革』、『史談』共に藤原氏ゆかりの寺院を頼ったとする点で共通していること

・治田葛山家の伝承では富田の方に本家がある、四日市の葛山家でも四日市から北上していなべに入った一族があるといった伝承が共通しており、『史談』も同様の記述があること

 

これらを踏まえた上で、1つの仮説を立ててみることにします。

 

葛山豊後守政続は桶狭間の合戦を戦い抜き、武田信玄駿河侵攻時には今川方に与して4300(加勢を含めると6800)の将兵を率いる横山陣の大将で、武田軍相手に奮戦したが、武田軍の大軍には衆寡敵せず、退却することとなった。

政続の一派は武田氏に離反した領主・葛山氏元の一派と別行動をとり、興津川から藤原氏に縁ある寺院を頼って船で落ち延び、政続の一党は富洲原港に到着し、現在の三重県三重郡川越町豊田にあった、藤原氏ゆかりの長恩寺に庇護され土着。

慶安4年(1651年)に長恩寺が蒔田城跡へ移転に伴ってか、葛山一族は現在の三重県四日市蒔田に定住し、一族の一部はさらに北上して、明暦2年(1656年)には現在のいなべ市北勢町別名近辺(治田地区)に入り、その一部がさらに藤原町東禅寺に移り住んだ。

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落ち延びたルートの推測(Googleマップ

 

まだまだ不十分な点があるようには思いますが、後考を待ちたいと思います。

 

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ここで、天保1831年~1844年)期の治田地区の家苗について見て見ましょう。

同地について記された郷土史の『治田村誌』(近藤杢著、1953年刊、以下『村誌』)は、松宮元勝が記した『北勢雑記』という郷土誌を典拠として、「天保四、五年(※1833、1834)頃の居住者」を紹介しています。これによれば当時、別名村と垣内村の二カ村に葛山姓を見ることが出来ます。

 

中でも別名と垣内が混合する「一之坂」(小字の「市ノ坂」が元か)という地区があります。ここに葛山家は多く、この地区は藤原町東禅寺と隣接しています。

 

また、『北勢町風土記』(1978年)に昭和52(1977)年8月時点での家苗調査が載っています。それによれば、葛山家は別名地区に7軒、垣内地区には2軒、一之坂地区は20軒となっており、いずれも「旧来よりあったもの」とされています。

現在においても、一之坂地区が治田の中でも葛山家が最多となっています。

 

また『村誌』は治田の旧家として服部家・美濃部家・岡田家などと共に葛山家も挙げています。おそらく、ここでは元禄(1688~1704)以前から居住している家を旧家としているようです。

これはルーツ③で紹介したように、1651年に現在のいなべ市に入ったという話と矛盾しません。

昭和27年(1952)の調査では、葛山家は数の上でも治田では上から5番目(39人 ※これは戸数と思われる)に入っています。

 

先述の『史談』は葛山一族が員弁入りしたとありますが、江戸時代の記録から当時の員弁郡で葛山姓が確認できるのは、別名村、垣内村、東禅寺村の三カ村だけです。

 

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さて、葛山という姓での著名人といえば、俳優の葛山信吾さんです。

 

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https://news.goo.ne.jp/entertainment/talent/M93-0860.htmlより拝借

信吾さんは出身は亀山市ということですが、母校は四日市市にある四日市工業高校だそうです。

信吾さんもまた、四日市の葛山にルーツを持つとしたら、四日市工業へ入学したのは偶然ではなく、必然の運命だったのかもしれません。

 

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 ◆あとがき

私も先祖が葛山に繋がる者であり、葛山一族の変遷には感慨深いものがあります。そしてこの私も四日市で生を受けています。これも偶然ではなかったのかもしれません。

 

葛山家のルーツについてご存じの方、またこの記事の感想等、コメントしていただければ幸いです。メールでもご意見を賜っております。お気軽に送信ください。

 

 

三重県・葛山一族のルーツ③「家紋・寺・伝承」

次に、いなべ市藤原町東禅寺にある浄土真宗の寺院、明源寺が発行している『明源寺の沿革 第2集』(※以下『沿革』、平成12(2000)年頃刊行か)を紹介しましょう。

同書によれば、静岡県裾野市を発祥とする葛山一族は、戦国末期に一族離散となり、各地に離散となり」、「その中の一部が、縁をたどって北伊勢にも流れ」、「北伊勢の葛山一族を名乗る家紋は、左巴だといいます。

確かに、明源寺のあるいなべ市藤原町東禅寺の葛山一族の紋は左巴(多くは丸に左巴紋)です。ですが、以下に記すように北伊勢といっても東禅寺に限定しているように思われます。

東禅寺の葛山一族はこの明源寺を菩提寺としています。

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なお、一軒だけ丸に蔦の葛山家がありますが、これはおそらく途中で家紋を変えたのだと思われます。

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ここで、県内の他の葛山一族の家紋を紹介しましょう。

いなべ市北勢町治田地区の葛山一族の家紋は、揚羽蝶(多くは丸に揚羽蝶です。管見の限りでは、別名地区に一軒だけ揚羽蝶の家があります。その事が何を意味するのかは不明です。

治田の葛山一族の菩提寺は、北勢町東村(治田地区)にある真宗大谷派の寺院、紫光山円福寺です。

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2019/6/18追記

四日市蒔田の葛山家の縁者の方から情報をいただきました。菩提寺は蒔田にある長明寺、家紋は抱き茗荷とのことです。長明寺は葛山一族と縁の深い寺院です。この事は後述します。

 

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朝日町大字小向の葛山一族の紋も気になるところです。

 

さて、葛山一族が伊勢国に逃れた理由とは何でしょうか。

『沿革』はその理由を葛山一族に縁の深い浄土真宗本願寺派(西)の寺院が三ヶ寺存在したことによるといい、その三つとは、三重県四日市蒔田の長明寺(当時川越町豊田にあった長恩寺)、同三重郡朝日町小向の浄泉坊、同いなべ市藤原町の明源寺であるといいます。

長明寺の蒔田一族は、葛山一族と同じ藤原氏一族、浄泉坊と明源寺の住職の姓は葛山だったといい、『沿革』はその縁を遡って落ち延びたとしています。

同寺に伝わる系図によれば、寛文10年(1670)に亡くなった六代住職・善正の妻・妙好は東禅寺村の葛山七ロ座衛門の娘とあり、『沿革』は葛山一族は遅くても、1670年までには、藤原町東禅寺に存在したと考えられるとしています。

妙好が亡くなっているのは寛文3(1663)年ですから、遅くともこの時までには既に葛山一族が東禅寺に存在していたということだと思われます。

 

以下、葛山一族と縁深い三寺院について沿革を簡単に紹介します。

 

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▲足下山 明源寺(Googleマップストリートビューより、2014年12月現在)

大同3(808)年に天台宗の開祖である最澄が開基で東禅寺と称していたが、元久元年(1204年)に当時の住職が親鸞聖人(1173-1263)に帰依、その後顕智上人(1226-1331)の教化によって真宗高田派に属して明源道場となり、後に本願寺が東西で分裂すると本願寺派に帰依。正保4年(1647年)7月14日に寺号を賜った。

江戸時代の文献では「葛山山」とも呼ばれており、住職の姓も葛山だったが、明治5年(1872)7月に「古寺」と改姓し、現在に至る。

 

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▲朝明殿 長明寺(Googleマップストリートビューより、2018年10月現在)

創立年代や開基は不明。元々は真言宗潮音寺と称して豊田村(現三重郡川越町豊田)にあり、長恩寺という字名が当地に残っている。

文明17(1485)年頃に真宗に改宗、慶長9年(1604)に現在の寺号を公称し、寛永元年(1624)に木仏の許可を得て寺院化。慶安4(1651)年に領主・松平隠岐守定行によって現在の寺地(蒔田城跡地)を賜り、翌年に寺基を移した。

 

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▲小向山 浄泉坊(Googleマップストリートビューより、2017年12月現在)

 正治元(1199)年、小向神明宮の別当寺である正治寺として始まり、応仁元(1467)年に蓮如上人に帰依したが、戦国時代の永禄10(1567)年に兵火にかかり焼失。

慶長8(1603)年に伊勢慶昭が再興して現在の寺号に改称し、寛永15(1638)年に西本願寺より寺号の公称を許された。桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたこともあり、山門や瓦に徳川家の葵の紋が入っていたため、参勤交代の大名は駕籠を降りて黙礼したと伝わる。

元々住職の姓は「葛山」だったが、いつの頃か地名にあやかってか「小向」に改めている。先の明源寺第九代住職・怒正の二男・玄宗が同寺に入っており、縁深い。

 

なお、朝日町では今川義元が、織田信長に討たれ先陣の葛山氏は帰れなくなり三重県に土着したのではないかと言われている」「小向には、城郭風の寺があり先祖の屋敷跡と言われている」という伝承が伝わってる由です。

城郭風の寺とは、この浄泉坊の事を指しているものと思われます。

また、別の葛山さんは「実は葛山氏元は亡くなっておらず、朝日町に逃れてきて、自分が子孫である」と語っています。伝承は多岐に渡っているようです。

 

また、『員弁史談』(近藤実著、員弁郡好古史研究会刊、1981年、以下『史談』)は「葛山氏が敗れてその裔族が伊勢に移住して栄えたのが、北勢町の葛山一族であるというドラマが最近解明された」として、葛山一族が伊勢に逃れてきた理由を次のようにしています(※西暦は算用数字に改めました)。

永禄三年(1560)五月織田信長今川義元桶狭間で敗死させた時には、葛山備中守信貞は今川義元重臣の一人で、五千騎の大将として奮戦信長のために敗死の運命をたどった。今川氏が滅亡すると、葛山信貞武田信玄の妹の子という伯父甥の姻戚関係をもって、その裔葛山氏は武田の客将となったが、その後不和の事起り、葛山城は武田軍の攻略によって天正八年(1580)落城、一族は信州諏訪に逃れ滅んだ。その裔孫伊勢の豊田(現四日市、旧富州原の豊田)の藤原氏に縁のある長恩寺(現長命寺)・宝性寺の庇護により土着、その一族が員弁入りをしたのは天明二年(1656)以後と文献は伝えている。葛山城の悲史と現地調査によって判明した来歴である。今後の解明による点が多いことを断っておく。(葛山家系図並に諸文献は葛山弘氏蔵)

 

なお、文中では天明2年となっていますが、天明2年は1782年であり、1656年は明暦2年です。天明2年は明暦2年の誤記ではないかと思われます。長命寺は長明寺の誤記と思われます。

また、龍王山宝性寺は元々天台宗だったと言われていますが、現在は地元の観音堂として信仰され、「蒔田観音」の愛称で呼ばれているようです。

『史談』の記述の元となった文献の記述が気になるところです。

 

先の『一族』も『史談』同様に、桶狭間の合戦で葛山備中守信貞が五千の兵を率いたとしていますが、「武田源氏一流系図」には、油川信恵武田信玄の祖父、信縄の弟)の子に葛山播磨守信貞という人がいて、号葛山、母信虎入道之妹、駿州竹下住人葛山備中守維貞養子、属今川義元、在城尾州笠寺、歌人とあり、また信玄の妹に「葛山播磨守信貞妻」という記載があるため、『一族』や『史談』の言う「葛山備中守信貞」とはこの人物の事を指して言っているものと思われます。

この系図に基づくならば『一族』が言うように信貞信玄は伯父甥の関係ではなく、血縁的には信貞信玄の父・信虎のいとこであり、信玄とは妻を介しての義兄弟だったことになります。

 

しかし、戦国時代の今川氏を主に研究している歴史学者静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は、当時の今川氏の確かな史料には信貞の名前は出ていないことを指摘しています。

ですが、桶狭間の合戦当時の「葛山播磨守」は以下のように散見されます。

※カタカナは平仮名に改めました

 

・永禄元年(1558)3月3日付今川義元書状(※この書簡は偽文書扱いされています)

去晦之状令被見候、廿八日夜織弾人数令夜込候処に、早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、

(※日付及び署名略)

浅井小四郎殿

飯尾豊前守殿

三浦左馬助殿

葛山播磨守殿

  笠寺城中

 

・『三河記』

十五日、義元岡崎に到着せらる、(略)兼てより(略)笠寺の城には葛山播磨守・三浦左馬助・朝比奈兵衛尉・浅井小四郎を入れ置ける、

 

・永禄3年(1560)5月20日付池田庄三郎・前田右馬頭書状

※この書状で名前が挙がった理由については『改正三河風土記』の記述を参照。

葛山播磨守 後陣旗頭

   

・『改正三河風土記』上 国会図書館デジタルコマ番号(165)

※出典は先述の永禄3年5月20日付書簡か

後軍の旗奉行葛山播磨守長嘉同乾安房守元清(略)以下随一の勇士五百八十三人義元の討死を聞て其場を去らず枕を並べ討死す今川の同胞権阿弥(略)を下方九郎右衛門春風生捕て信長の前へ引来る信長大に悦ばれ今日討取首共を彼に見せらる権阿弥懐中より帳面取出し其姓名を首に引合せて銘々に書付て出しけれバ信長大に感ぜられ一命を助け駿府へ送り返されたり

 

・『天澤寺記』「桶狭間殉死之士」

葛山播磨守長嘉 後陣旗頭

葛山安房守元清

 

・『葛山家譜』

綱春 葛山播磨守(略)終為義元死、笠寺籠城五人之内、最得武名、

 

名古屋市在住の子孫伝

葛山播磨守元綱 継深院智〇勇勁居士

葛山備中守総武 栄観院葛山義忠居士

 

尾張高徳院過去帳

葛山播磨守信貞戦死

葛山安房守元清戦死

 

・「葛山氏を語る」

葛山備中守勝嘉

葛山播磨守信貞(維貞養子)

 

以上を考えると、桶狭間の戦い当時に葛山播磨守という人物がいて戦死したらしい、という事は少なくとも言えるのではないでしょうか。

また『伊束法師物語』一の「岡崎与駿府一味之事」には、「義元の家老葛山播磨守」とあります。「後陣旗頭」の「葛山播磨守」と同一人物だと思われます。

しかしその実名が「長嘉」なのか「信貞」なのか「綱春」なのか「元網」なのかは不明です。

 

なお、葛山城址保存会賛助会員で葛山城祭企画委員の某氏は、播磨守信貞は桶狭間の戦いで戦死しておらず、「船で伊勢に落ち延びて土着した」そうだとしています。

 

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四日市在住のある葛山さんは、父から先祖が戦に追われ現在の三重県四日市市富洲原港まで逃げて来て、一部の者は蒔田地区に居座り、他の者はいなべ市藤原地区まで来た女子は京都に逃げ延びたと聞いたといいます。また、裾野からでは無く、関ヶ原からの移動説もあるとのことです(yahooブログ、2017年3月10日のコメントより)。

藤原町は東禅寺にしか葛山姓はないため、ここでいう藤原地区は東禅寺を指しているものと思われます。

なお『史談』は、藤原町東禅寺の葛山一族は治田別名から移った一族といわれていると記しています。別名といっても広いのですが、別名でも葛山家が多く分布している場所は、東禅寺とかなり近く、徒歩5分くらいの距離です。

 

先述したように治田の葛山一族と東禅寺の葛山一族とは家紋も菩提寺も異なります。

しかし、治田別名から移ったという伝承を考えると、遡れば東禅寺の葛山一族と治田の葛山一族は同族だったと考えて差し支えないと思います。 

 

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三重県・葛山一族のルーツ②「宗家とその先祖・葛山豊後守政続」

さて、いなべ市北勢町別名・垣内・東村・中山・麓村・奥村・新町を総称して「治田」と呼ばれる地域ですが、同地のある葛山さんに御話をうかがった所、「治田の葛山家の宗家にあたる家は、富田の方にある」とのことです。

かつてその家を尋ねたところ、同家には今川義元から拝領したという鉄砲や甲冑が伝わっており、実際に見せてもらったといいます。

 

ある方はこの家の当主の方から「葛山氏は、年号が変わるたびに大きな転機を迎えている」、「葛山一族は、伊勢と長野に落ち武者として逃れている」、「追っ手からのがれるため門山と名前を変えている」といった事を聞いたようです。

 

年号が変わるたびに大きな転機を迎えているというのは誠にその通りで、

永禄年間には桶狭間の戦い駿河侵攻という葛山一族の運命を揺るがす大事件があり、

元亀年間には今川氏から武田氏へ離反した氏元ら一族が処刑され、かつ信玄の子息である信貞の葛山氏継承があり、

天正年間には信貞も武田氏滅亡に殉じています。

 

また、『葛山一族』(日本家系協会刊、1985年、以下『一族』)という本があります。

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これは限定200部のもので、ほとんどの図書館も所蔵しておらず、現在では入手困難のものですが、この本には先程紹介した家と思われる家について次のような記述があります。(※一部改変)

葛山備中守惟兼の十六代を備中守信貞といふ。信貞は、智勇兼備の将にして、永禄三年(※1560)、桶狭間の合戦には、今川義元より五千の兵を預けられ、南方より織田方攻めの先陣をつとめ、激戦ののち、ついに討死して了りぬ。今川勢敗るに及び、清州攻めの将たりし、葛山左衛門広重の末孫、葛山豊後守政続以下、葛山氏の一族は、或は討死し、或は離散して各地に分れたり。

その一に、伊勢国に徒りて土着せし一流あり。今に系を伝ふ。彼の家の承伝に、近世以降の系を左の如く伝へたり。

 

〇政続 葛山兵之祐、豊後守、永禄(※1558年~1570年)中の人

・祐続 兵右衛門、天正(※1573年~1593年)中の人

・某 孫之祐、慶長(※1596年~1615年)の人

・某 兵平衛、万治(※1658年~1661年)中の人

・某 甚右衛門、寛永(※1624年~1645年)中の人

・某 長左衛門、寛文(※1661年~1673年)中の人

・某 甚五兵衛、正徳(※1711年~1716年)中の人

・某 七兵衛、享保(※1716年~1736年)中の人

・某 七右衛門、寛保(※1741年~1744年)中の人

・某 与三祐、明和(※1764年~1772年)中の人

・某 長兵衛、天明(※1781年~1789年)中の人

・某 卯之祐、文化(※1804年~1818年)中の人

・某 孫右衛門、天保(※1831年~1845年)中の人

・某 与七、明治(※1868年~1912年)中の人

・某 兵祐、昭和六年(※1931)没

・千志 兵三郎、昭和二十年(※1945)没

・實 当代、四日市に住す

 

『一族』の記述を見る限り、清洲方面に当っていた政続以下その一族が桶狭間で敗れ、各地へ離散したとあります。確かに、桶狭間の合戦当時に葛山播磨守の軍勢を先鋒として清洲方面に展開していましたから、事実だとすれば政続もこれに従っていたのでしょう。

しかし、文政3年(1820)に桑田藤泰らによって著された『駿河記』の庵原郡巻二で引用されている”今川軍記残篇”という軍記物語の永禄11年(1568)の部分に、「葛山豊後守」「葛山豊後守政続」などとしてその名前が見えています。

これは桶狭間の合戦の後ですから、政続は桶狭間の合戦の頃に戦死、ないしは伊勢国に土着したわけではないようです。”今川軍記残篇”にある記述は、武田信玄が今川氏との同盟(甲駿同盟)を破棄して駿河に侵攻した当時の話です。

この時の今川軍と武田軍の戦いの様子などは軍記によって異同がありますが、ここでは『駿河記』所収の”今川軍記残篇”の記述に基づいて話を進めていきます。

 

永禄11年12月14日申の刻(15時~17時)、武田軍の馬場信春高坂昌信武田信堯等が降伏した今川軍の庵原弥兵衛・福島源三郎の案内を受けて、武田軍を撃退するため薩埵峠に陣を構える庵原忠胤らの軍勢を背後の山から奇襲しました。

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左:馬場信房、右:高坂昌信


夜中であったため今川軍は慌てながらも防戦したものの、武田軍の大軍に押し切られてしまい、今川軍はある者は討たれ、ある者は逃げ、ある者は降るという有様でした。

 

薩埵峠を突破した武田軍は「薩埵山(現:静岡市清水区由比西倉澤)より井の上立花(現:清水区立花)承元寺(現:清水区承元寺町)まで、興津川を隔て東の方に陣取」っていました。

対して、その興津川を隔てて西側の横山(現静岡市清水区谷津町二丁目)と八木間(現静岡市清水区八木間町)に今川軍は陣を構えていました。

そしてこの両陣の大将・葛山政続松平家は、12月15日朝5つ時(8時)、加勢を乞うために矢部半蔵と目付・津田粂右衛門をそれぞれ駿府に派遣しています。

氏真は薩埵峠の軍勢が崩壊すると清見寺に布陣していた氏真は駿府へ退却したと言われていますから、駿府というのは氏真のいる今川館のことでしょう。

加勢を要請したことから考えて、横山・八木間の今川軍はここで武田軍を迎え撃とうとしたようです。薩埵峠が破られたこともおそらく知っていたはずで、武田軍の駿府到達を阻止しようとしたのでしょう。

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布陣図(想像)

政続を大将とする横山の今川軍4300余騎は次のような軍勢で布陣していたようです。政続に諸士は数百人だといいます。 ※一部改変

主将:葛山豊後守政続

右将:伊藤長門

左将:浅野左衛門春重

侍大将:中川吉右衛門通秀、由比作之進重武、安藤民部、仙石吉三郎、池田又五郎、渡邊左京、青木幸蔵、高木政右衛門、北条作右衛門、同佐助、岡部五郎右衛門、佐久間大八、松平善四郎、牟礼善右衛門、渥井主馬、富塚備後、大村隼人、天方軍次郎、田中平左衛門、杉原居右衛門、落合市郎兵衛、武藤金十郎、穴山十次郎、横山伝左衛門、土屋惣三郎、馬場新九郎、小笠原多五郎、直田興左衛門、小早川庄介、外山小右衛門、舟越五郎三郎、久世三吉、井戸新兵衛、近藤彦右衛門、本田喜太夫、別所主水、荒川助八郎、同助五郎、別所豊五郎、佐久間与七郎、津田与左衛門、大谷弥八郎等

 家平を大将とする八木間の今川軍1500余騎は次のような軍勢で布陣していたようです。※一部改変

主将:松平大炊介家平 (子息)松平摂津守良平

右将:松平数馬秀通

左将:斎藤民部宗平

侍大将:西郷伊織正続、富永右京、宮塚隼人、島居四郎三郎、小倉与左衛門、深津八十朗、小長谷忠右衛門等

 駿府から横山の今川軍の加勢には、以下の33人の諸士率いる2500が派遣されました。

小島十蔵、八木間幸蔵、熊谷弥三兵衛、佐藤又蔵、分部左衛門、小西源五郎、相原善左衛門、長谷川左京、大谷大蔵、大谷大助、加藤弾左衛門、同弥五郎、高橋半三郎、同十吉、別所孫三郎、矢部半左衛門、同半弥、安部弥八郎、土井八左衛門、同八之丞、有馬十郎左衛門、山内孫三郎、同孫之進、池田又左衛門、加納平右衛門、曾我七九郎、同七三郎、斎藤政右衛門、井伊定五郎、松平兵三郎、庵原佐左衛門、三浦安之丞、由比十次郎、富永源八等

八木間に派遣された駿府からの加勢、1500余騎は次の通りです。

由比淡路守、岡部兵部、富田源五左衛門、大谷刑部、市橋大学、日根織部、山内甚左衛門、山口清左衛門、青山与兵衛、中村四郎右衛門、青木友八、大谷弥太郎、長澤孫右衛門、安藤与兵衛、由比千右衛門、斎藤五左衛門、沢津八三郎等

この通りであるとすれば、元々の横山陣の軍勢4300に加勢(2500)を含めた総勢6800の軍勢をあずかる大将であった政続は、今川家から相当信頼の置かれていた人物と思われますし、とりわけ葛山一族の中でも有力な人物だったのではないかと思われます。

 

さて、ここからは横山・八木間の今川軍総勢1万300余騎VS井上・八木間・横山方面に展開する武田軍5000余騎の戦い、”今川軍記残篇”の言うところの「井之上八木間河原合戦」の様子を紹介していきたいと思います。

 

●横山加勢の小島十蔵ら今川軍(2500余騎)VS馬場信房ら武田軍(5000余騎)

朝(15日?)に横山の今川軍に駿府からの加勢2500騎が到着すると、この加勢2500騎は直に井上の川上の瀬を渡し、武田信友・馬場信房・武田信堯・高坂昌信小山田信茂等の軍勢へ攻めかかりました。

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小山田信茂

武田軍5000余騎も応戦して火花を散らして戦い、武田軍の兵士は200余騎討たれて井上の川原へ退却し、横山加勢の今川軍も180騎討たれて横山の川原へ退却しました。

結果:今川軍2320余騎(180余騎死亡)・武田軍4800余騎(200余騎死亡)

 

●葛山政続以下横山の今川軍(4300余騎)VS山県昌景ら武田軍(1500余騎)

次に、小幡山城守光盛内藤昌豊山県昌景等武田軍1500余騎が横山の今川軍に攻めかかりました。

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左:内藤昌豊、右:山県昌景

葛山政続以下4300余騎の兵は叫びながら武田軍の中央へ突撃して東西南北に駆け、半時(1時間)ほど戦った後、武田軍は300余騎、今川軍は700余騎の損害を出して、それぞれの本陣に引きました。

結果:今川軍3600余騎(700余騎死亡)、武田軍1200余騎(300余騎死亡)

 

余談ですが、この「井之上八木間河原合戦」の最中に同士討ちも発生していました。

横山組に属する由比美濃守の三男、由比作之進重忠は武田軍の小山田信茂の家臣・南部又蔵八代仁左衛門を討ち取って下川原へ引き揚げる折、八木間組に属する小早川庄介先述した横山組の諸将の中に庄介は含まれていますが、しばらく今川軍記残篇の記述に従うこととします頼則と出会いました。庄介も一人八木間への退却に遅れていたのです。

庄介作之進に対して憤慨し、遺恨のことについて問答が始まりました。遺恨とは時雨という女性を巡った色恋沙汰のことで、二人は恋敵でした。

今川家の大事にも関わらず、どちらも血気盛んな若者の彼等はついに一騎打ちに発展してしまいます。庄介はまず作之進に切りかかり、切り結びます。作之進の方が刀法が優れており、庄介は3,4カ所の手傷を負い、作之進の斬り込みを受け庄介が受け太刀になった時、庄介の朋友である荒川助次郎(横山組・荒川助五郎と同一か)別所豊三郎(横山組・別所主水と同一か)「味方打ちとは何事だ」と呼びながら駈け付けました。その時に庄介の左腕が斬り落とされ、豊三郎「朋友の討死を見逃すことは出来ぬ」作之進に斬りかかったものの、作之進は逆に豊三郎の首を打ち落として返り討ちにし、助次郎庄介の肩をかけて逃げようとしたところを追いかけて助次郎の左肩からあばらを斬りつけ、助次郎は即死しました。庄介もこの時に亡くなりました。これを見ていた助次郎の弟・荒川助八郎佐久間与七郎津田与左衛門大谷弥八郎(いずれも先述の記述では横山組)が駆けつけ、彼等は作之進を無二無三に切りかけ、作之進は合戦の働きに疲れて3カ所手傷を負い、助八郎によって作之進は討たれました。

後に人が由比小早川のしるしとして松と榎を植えたものの、そえから40年後の興津川の洪水で共に流れてしまったとのです。

 

松平家平以下八木間の今川軍(3500余騎)VS武田軍(3500余騎)

次に、加勢を併せた松平家平・良平父子率いる今川軍3500余騎が、川窪詮秋・武田信堯・真田兵庫・土屋惣藏・原昌胤・杉原正之・安中久繁・小笠原兵衛等武田軍3500余騎に討って掛かりました。

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原昌胤


両軍は雌雄を決して争ったものの、人馬も疲れて左右に分かれて控えていたところ、薩埵山に控えていた武田軍の総大将・武田信玄が5500騎の加勢を派遣しました。横山・八木間の今川軍と交戦している武田軍総勢5000余騎にこの加勢を加えれば、1万500余騎になります。そして1万500騎の大軍は着着と近づいてきていました。

家平率いる3500余騎の将兵も命の限り戦ったものの、武田軍の大軍に辟易し、興津川原の川上から西方の横山と八木間の両陣へ退却しました。この戦いで今川軍は多くの将兵が討たれたため、武田軍は興津川東の井上・立花・承元寺に退却しました。

その夜には形勢不利を悟った横山・八木間の今川軍は、両陣を引き払いました。

結果:今川軍は大損害を受けて各々退却

 

陣を引き払った横山・八木間の今川軍の将兵達のその後は、

・女体の森(現:清水区興津)へ行くもの、

・横山から山越に庵原郷(現:清水区の大部分、葵区の一部、富士市の一部、富士宮市の一部)へ引き揚げる者、

・八木間から山越に広瀬(現:清水区広瀬)、茂畑(現:清水区茂畑)へ引く者、

・草ケ谷城(現:清水区草ヶ谷)へ引き揚げる者、

・馬の瀬から谷を越え峯を越え清見寺(現:清水区興津清見寺町)へ引き揚げる者等々それぞれでした。

 

横山陣の大将である政続がこの「井之上八木間河原合戦」を生き残ったのか、あるいは戦死したのかは不明です。

しかしながら、横山・八木間の今川軍の将兵達は敗走する際にバラバラになっていることや、『一族』で政続は「永禄中の人」となっていることを考えると、この戦いで戦死したのかもしれません。

 

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三重県・葛山一族のルーツ①「葛山姓の分布と葛山氏の概説」

葛山という姓を姓名分布ランキングというサイトで検索すると、三重県を最多とし、次いで東京都、愛知県となっています。

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最多の三重県内でも多く葛山姓が分布するのは四日市市で、次いでいなべ市三重郡朝日町となっています。

いずれも三重県北部に集中していることが分かります。

 

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さて、気になるのは三重の葛山一族のルーツです。

結論から言えば、そのルーツは駿河国駿東郡葛山(現静岡県裾野市)を発祥とする武士で、室町時代以降は葛山城に本拠を置いて栄えた豪族・葛山氏です。その概説を述べると次の通りです。

 

葛山氏の本姓は藤原氏と言われており、その始祖藤原鎌足中臣鎌足大化の改新を後の天智天皇、当時の中大兄皇子と共に主導した)の次男・不比等の次男・房前を祖とする藤原北家の流れを汲むとされます。

 

叔父の藤原道長(後に親子二代で摂関政治の全盛期を築いた)と関白の地位を争って敗れた藤原伊周の曾孫である「藤原維兼」(『葛山家譜』、『仙年寺過去帳』、『葛山御宿系図』、『武田源氏一流系図』。『大森系図』及び『大森葛山系図』では「惟兼」)が駿東郡葛山という地に住み、葛山氏を称したことに始まると言われています。

 

源平争乱期には葛山一族は源頼朝に従ったようで、『曾我物語』には「葛山又六」、「竹下孫八」といった一族の人名が見えます。初代・維兼の孫世代にあたります。

 

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源頼朝

 

鎌倉幕府が開かれると御家人として仕え、『吾妻鏡』では、承久の乱(1221年)に一族の中で幕府方として参戦した人物として「葛山小次郎」「葛山太郎」の名前が見えます。とりわけ小次郎幕府軍の総大将・北条泰時(後の三代目執権)に従って先発した十八騎の一人であることから、有力な御家人だったと思われます。

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北条泰時

戦国時代には先述の小次郎の子孫が、駿河の守護・今川氏の下で国人領主(半独立勢力)として駿東郡を治めました。その支配領域は現在の静岡県裾野市葛山を本拠とし、北は御殿場市から南は沼津市に周辺にかけてのものだったといいます。

 

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静岡県の地図

 

葛山氏の支配領域は駿河今川氏、甲斐武田氏、相模後北条氏といった有力な戦国大名に挟まれ、形の上では今川氏に従属していましたが、北条氏や武田氏ともつながりを持ちました。

家紋家紋ファイル:Japanese Crest Takeda Hisi.svg

 

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https://www.kashikiri-onsen.com/kantou/gunma/sarugakyou/sengokushi/map.html

 

史料上では、当時の領主として「葛山中務少輔氏広」「葛山備中守氏元」の名前が見えます。

氏広後北条氏出身で、領主葛山氏の養子となったと考えられており、氏元は葛山一族の出身とされ、氏広の養子となってその死後に葛山氏を継承したと考えられています。

 

 

永禄3年(1560)、尾張の小大名・織田信長と当時「東海道一の弓取り」と呼ばれた駿河戦国大名今川義元が争った桶狭間の合戦では、今川方として馳せ参じた葛山一族も多く討死したと伝えられています。

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http://www.nagoya-info.jp/nobunaga/okehazama/where/

名古屋市緑区桶狭間古戦場公園にある織田信長(左)と今川義元(右)の銅像

 

義元桶狭間で戦死すると今川氏は衰退し、当時今川氏と同盟を結んでいた甲斐の戦国大名武田信玄は同盟を破棄し、駿河への侵攻を開始します。

義元の跡を継いだ今川氏真はこれを迎え撃つべく、今川氏の名軍師・太原雪斎の一族である庵原忠胤を大将とした軍勢を薩埵峠(静岡市清水区由比西倉沢)方面に派遣し、自らも清見寺(静岡市清水区興津清見寺町418-1)に本陣を置きました。

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武田信玄

 

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今川氏真

 

時の葛山氏当主であった「氏元」もこの薩埵峠方面に派遣された今川氏の有力武将の一人でしたが、朝比奈信置瀬名貞綱らと共に武田氏へ離反したため、薩埵方面の今川軍は総崩れとなり、清見寺に布陣していた氏真駿府の今川館に退却しました。

結局武田氏の猛攻を防ぎきることは出来ず、氏真後北条氏を頼って小田原に逃れ、ここに戦国大名今川氏は滅亡し、遂に武田氏の領国となりました。

氏元の離反については事前に信玄の調略があったようで、「信玄が駿河を制圧した暁には駿河半国を知行する」といった条件が武田側から提示されてそれを受諾したとされています。

しかし、それを抜きにしても義元の戦死後は今川家は衰退し、松平元康(後の徳川家康が今川氏から独立して仇敵織田家と同盟を結び、井伊直親・飯尾連竜を始めとした国人領主が離反するなど、混乱が続いていました。

こうした状況を氏元も知っていたはずで、今川氏が長くないことを悟っていたのではないでしょうか。一族の安泰のため、代々の領地を守るため、武田氏に離反したのもやむを得ない決断だったのではないかと思います。

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駿河志料』 第9編

氏元の直筆による印判は元亀元年(1570)3月20日付のものが最後のものとなり、その後の氏元及び一族の動向は当時の確かな史料からは不明です。 

 

後世に記された軍記物語や系図等によると、氏元今川氏離反の際に信玄と交わした約束が果たされなかったことから、後北条氏と内通して反乱を企てたものの、事前にそれが露見して諏訪湖において処刑されたとされています。

なおこの時に一族皆討たれた、一門悉く湖に沈んだ、一族五人が張り付けにされた、溺死した、など氏元及び一族の最期については軍記物語や系図によってその最期には異同があります。

なお、当時の禅僧・鉄山宗鈍漢詩には次のような部分があります(読み下し文を掲げます)。

瑞栄居士、仮に府命を蒙り、諏訪大湖上に潜蹤す。本年二月の終り、屈子の懐沙の日を待たずして、俄然、説破に没溺せらる。

「瑞栄居士」とは葛山氏元の戒名のことで、「府命」とは武田信玄の命令を指すといいます。

「屈子」とは、春秋戦国時代の楚の政治家であり詩人の屈原(前343?~前278)のことです。その最期はこの世に絶望して前278年5月5日に長江の支流・汨羅に身を投げ、「懐沙」という漢詩を遺したと伝わっています。

つまり、この漢詩を意訳すると、「氏元は信玄の命により諏訪湖で姿を消した。本年(1573)2月の終わり、屈原の懐沙の日(5月5日)を待たずに、突然信玄によって説破されて波の中に消え失せ、風と露のみが残った。」というようなものになるのでしょうか。

この漢詩に忠実であるならば、元亀4(1573)年2月末に氏元信玄の命令によって諏訪湖で最期を迎えたことは間違いないようです。軍記物語や系図類の記述からして、この時氏元に近い一族の人々も最期を迎えたのは事実でしょう。

ここに、事実上葛山氏は滅びました。

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https://www.suwakanko.jp/

 

さて、軍記物語や系図類によると、信玄によって葛山氏の与力・同心は助けられ、信玄は六男・武田信貞(前名・義久)氏元の次女・おふちの婿養子に据え、信貞「葛山十郎信貞」と号して葛山氏を継承しました。

しかし、それは従来の駿東郡を治めた葛山氏を継承したというよりは、葛山氏の名跡を乗っ取った形でした。

ただし、元亀3年(1572)5月11日付の武田信玄の判物に葛山信貞の名があることから、氏元が1573年に亡くなったことが事実だとすれば、信貞の葛山氏継承は氏元の生前のことだったのではないかと思われます。

尤も、この時の信貞はまだ10代と幼かったので、御宿友綱(御宿氏は葛山氏の一族)が陣代に就任して後見人を務めました。

 

元亀4年(1573)4月、信玄が病死した際には信貞は葬儀において位牌を持つ大役を務めています。

信玄の跡を継いだ武田勝頼は、天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗を喫し、信玄以来の重臣を数多く失いました。

その後、勢力を増した織田信長によって甲州征伐が行われ、勝頼は妻子共々自刃して武田氏は滅亡し、信貞小山田信茂と共に甲斐善光寺で処刑されました(地元の裾野市では、甲斐善光寺に向かう道中で徳川家康によって殺されたと言われているようです)。

時に天正10(1582)年3月のことでした。

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葛山信貞終焉の地と伝わる甲斐善光寺山梨県甲府市善光寺

ここに名実ともに葛山氏は滅び、歴史の表舞台から姿を消すこととなったのです。

 

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あけましておめでとうございます

皆さん、あけましておめでとうございます。


令和二年、2020年がスタートしました。


平成から令和に元号が変わったのもついこの間のように感じ、東京オリンピックなんてもっと先の話だと思っていたら、ついにその年を迎えてしまいました。

年を重ねるにつれ、時間が経つのは早いとつくづく感じる次第です。


さて、今年は私にとっては一つの節目の年。

自分磨きに努め、人として成長できるように精進して参りたいと思います。


当ブログは不定期更新ですが、今後もルーツに関する記事を投稿していきたいと思いますので、ぜひたまに当ブログを覗いてやってください。


それでは、今年が皆様にとって良い年になりますように。