ルーツを尋ねて三千里

田舎でまったりルーツ、先祖を辿る

ルーツ葛山氏

葛山という姓を検索すると、三重県を最多とし、次いで東京都、愛知県となっています。最多の三重県内でも多く葛山家が分布するのは四日市市で、次いでいなべ市三重郡朝日町となっています。

 

葛山一族はそのルーツを辿ると、駿河国駿東郡葛山(現静岡県裾野市)を発祥とする武士であり、葛山城に本拠を置き、葛山氏として平安末期から戦国時代までこの地に栄えていました。本姓は藤原氏であり、藤原鎌足の子孫が葛山に住み、葛山氏を名乗った事に始まると言われています。

源平争乱期には源頼朝に従い、鎌倉幕府が開かれると御家人として仕え、承久の乱では葛山小次郎(系譜では広重)が執権の北条泰時に従って従軍したと『吾妻鏡』は伝えています。小次郎は駿河葛山の祖と言われているようで、後述の葛山豊後守政続もその末孫だと言われています。

戦国時代には駿河の守護、今川氏の下で国人領主(半独立勢力)として駿東を支配し、後北条氏や武田氏とも繋がりを持ちました。

永禄3年(1560)に尾張の小大名・織田信長と、当時「東海道一の弓取り」と呼ばれた駿河戦国大名今川義元が対峙した桶狭間の合戦では、今川方として馳せ参じた葛山一族も多く討死しました。

義元が桶狭間で戦死した後、駿河の今川家が衰退すると今川と同盟を結んでいた甲斐の戦国大名武田信玄駿河への侵攻を開始し、時の葛山氏当主、氏元は武田信玄へ離反しました。これは一族の安泰のため、領地を守るため、やむを得ない決断だったと思います。

その後の葛山一族の確かな動向を史料は少ないですが、少なくとも元号が永禄から元亀に変わる頃には、駿東における葛山氏の支配は消滅したものと考えられています。

氏元はその後、天正元年(1573)に謀反の嫌疑をかけられ(北条氏に内通したとされます)諏訪で処刑され、史料によって異同はありますが、同じ諏訪で葛山一族はことごとく討たれたと伝えられています。

信玄はその名跡を惜しんで六男の信貞に氏元の娘を据え、葛山氏を継承させましたが、信玄没後、織田信長甲州征伐が行われるや信貞は武田氏滅亡に殉じ、葛山氏は歴史の舞台から姿を消しました。

 

私の住む地域はいなべ市の中でも「治田」と呼ばれる地域ですが、そこの葛山家の宗家にあたる家は、四日市蒔田(富田の葛山さん)にあるとのことです。その家を尋ねた人によれば、同家には今川義元拝領の鉄砲や甲冑が現存するといい、実際に見せてもらったといいます。

 

『葛山一族』(日本家系協会刊、1985年)によれば、その家の初代は葛山豊後守政続(通称兵之祐)といい、「永禄中の人」となっています。同書によれば、桶狭間の合戦の折には政続は清州攻めの将だったといい、今川勢敗れるに及んで葛山の一族はあるいは討死し、あるいは離散して各地に分かれたとあります。

 

この政続という名前は文政2年(1819)に桑田藤泰によって書かれた『駿河記』にも見え、今川群残篇の永禄11年(1568)12月11日付に「横山陣大将葛山豊後守政続4千3百」として記載があります。これはちょうど武田信玄駿河侵攻時になります。

 

いなべ市藤原町東禅寺にある明源寺の沿革史によれば、戦国時代末期に離散した葛山一族の一部が縁を辿って北伊勢に逃れたといいます。

それによれば北伊勢の葛山一族の家紋は左巴だといい、明源寺のあるいなべ市藤原町東禅寺の葛山一族の紋は確かに左巴紋です(多くは丸に左巴)。四日市や朝日町の葛山一族の紋が気になるところです。

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2019/6/18追記

四日市蒔田地区の葛山家の縁者の方から情報をいただきました。菩提寺長命寺、家紋は抱き茗荷とのことです。

 

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さて、葛山一族が伊勢に逃れた理由とは何でしょうか。

明源寺の沿革史はその理由を、葛山一族に縁の深い浄土真宗本願寺派(西)の寺院が三ヶ寺存在したことによるといい、その三つとは、四日市蒔田の長明寺(当時長恩寺)、三重郡朝日町小向の浄泉坊、員弁郡藤原町の明源寺であるといいます。

長明寺の蒔田一族は、葛山一族と同じ藤原氏一族、浄泉坊と明源寺の住職の姓は葛山であり、この縁を辿って来たのではないかとのことです。

 

余談ですが、三重郡朝日町のある葛山さんによれば、「今川義元が、織田信長に討たれ先陣の葛山氏は帰れなくなり三重県に土着したのではないかと言われている」といい、「小向には、城郭風の寺(先の浄泉坊か)があり先祖の屋敷跡と言われている」との事です。三重県に土着した葛山一族には、桶狭間の合戦で敗れて落ち延びたという話が一般的に伝わっています。豊後守政続のケースもあるため、必ずしも桶狭間とは限りませんが、いずれの葛山一族も落ち延びたという点で共通しているように思われます。

 

話を戻すと、明源寺は現在でこそ姓が古寺ですが、これは明治5年に改姓したものであり、それまでは葛山姓で、江戸時代の記録によれば同寺は葛山山とも呼ばれていました。

同寺に伝わる系図によれば、六代住職、善正(寛文10年、1670歿)の妻、妙好(寛文3年、1663歿)は東禅寺の葛山七ロ座衛門の子であるといい、沿革史は、遅くとも1670年代までには葛山一族は東禅寺に存在したのではないかとしています。

 

『員弁史談』(近藤実著、員弁郡好古史研究会刊、1981年)は、葛山一族が伊勢に逃れてきた理由を、武田氏と不和になり、葛山城天正8年(1580)に武田氏によって攻略されて落城し、一族は信州諏訪に逃れた後、その裔孫伊勢の豊田(現四日市市、旧富洲原の豊田)の藤原氏に縁のある長恩寺・宝性寺の庇護によって土着したとしています。

その一族の一部が員弁入りしたのは明暦2年(1656)以後だと文献は伝えているといい、現在も同地のある葛山家に家系図と諸文献が伝わっているといいます。この家系図、文献について気になるところです。

 

治田の葛山家は富田(四日市市)の方面から移ってきたとの伝承が伝わっており、また四日市の葛山家にも同趣旨の伝承が伝わっていることを考えると、治田・東禅寺の葛山一族と蒔田の葛山一族はかつては同族であったのは確かなように思われます。

 

ここで、改めて政続の一族がどのような経緯で富田に土着したかを考えてみましょう。

 

1、永禄11年(1568)の駿河侵攻時の今川軍に陣大将として名前が見えること

2、葛山家当主たる氏元が武田に内通したことから、これに従った可能性が高いこと

3、『員弁史談』に武田氏と不和になり諏訪から伊勢に逃れたとあること

4、一族は藤原氏縁の寺を頼って逃れ、庇護されたこと

 

以上を考えると、政続は武田信玄駿河侵攻時、今川方で4300の将兵を率いる武将でしたが、駿河侵攻時に今川方から武田方へ内通した当主氏元に従ったものの、後に謀反の嫌疑で氏元や一族が諏訪で討たれる中でなんとか生き延び、藤原氏に縁ある寺院を頼って政続の一党は伊勢の富田に土着し、その一部がさらに北上して現在のいなべ市に入った・・・のではないでしょうか?

 

『員弁史談』によれば、先述の東禅寺の葛山一族は治田別名から移った一族だとしています。葛山家は、旧来から治田の中でも別名と別名一之坂、垣内一之坂に存在しました。

しかしながら、治田の葛山一族の家紋は全て丸に揚羽蝶紋であり、東禅寺の葛山一族の紋(左巴)とは異なりますし、菩提寺も異なります。

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天保期(1830~1844)に調べられた治田各村の家苗を見ると、葛山は別名村、垣内村の二カ村に見ることが出来、『治田村誌』(近藤杢著、1953年刊)は治田の旧家として美濃部家、岡田家などと共に葛山家も挙げられています。ここでいう旧家とは、1700年代初期頃から居住している家を旧家としているようです。また、葛山家は数の上でも治田では上から5番目ほどに入ります。

 

先述の『員弁史談』は葛山一族が員弁入りしたとありますが、員弁郡(現いなべ市東員町を除く)内で葛山の姓が江戸期の記録で確認できるのは、別名村、垣内村、東禅寺村の三カ村だけです。東禅寺の葛山一族がその発祥を治田別名としているように、員弁郡の葛山一族は元々、治田を発祥としていることは間違いないと思われます。

 

さて、葛山という姓での著名人といえば、俳優の葛山信吾さんです。

 

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https://news.goo.ne.jp/entertainment/talent/M93-0860.htmlより拝借

信吾さんは出身は亀山市ということですが、母校は四日市市にある四日市工業高校だそうです。

信吾さんもまた、四日市の葛山にルーツを持つとしたら、四日市工業へ入学したのは偶然ではなく、必然の運命だったのかもしれません(笑)

 

私も先祖が葛山に繋がる者であり、葛山一族の変遷には感慨深いものがあります。

 

葛山家のルーツについてご存じの方、またこの記事の感想等、コメントしていただければ幸いです。

ルーツ嶋田家(熊本県八代市鏡町内田)

熊本県八代市鏡町は私の高祖母サモの出身地です。

戸籍謄本から、サモは嶋田家の出身であることと、何人かの兄弟がいたことはわかっていますが、それ以前の事はよくわかりません。

「うちと関係しそう」、「うちの先祖に同じ人がいる」という人がいれば、ぜひメールもしくはコメントにておよせください。

※下記メールアドレスまで。(送信にあたってはアットマークは@に直してください)
yamatotakerunosuperuアットマークgmail.com

 

以下、人名や生年などは嶋田家戸籍(明治19年式 戸主嶋田久蔵)から。

 

※文中の市町村は現在のものです

 

鏡町内田 田中家系譜

 

    太蔵(~1870)・・・明治3年12月26日死亡

妻   不明

 

長男 久蔵(1850~1905)

妻   ノセ(1850~)・・・八代市東陽町小浦 白石佐平長女

 

次男 休平(1853~)・・・明治29(1896)年、

               八代市鏡町1006番地へ分籍

 

妻 ソリ(1864~)・・・八代市鏡町内田 野口平七三女

 

三男 惣平(1857~1897)・・・子、精市(1896~)は養子へ出た

 

妻 ムキ(1855~)・・・八代市鏡町有佐 小田初太郎伯母

              

長女 サモ(1864~1944)・・・八代市鏡町内田 田中才蔵と結婚

 

 

※関係ありそうな親族

 

●長男久蔵家族

長女 ノカ(1875~)・・・八代市千丁町古関出 古島夘七に嫁ぐ

              その子、ノエ(ミエ?)はサモの子、

              田中大次と結婚している

 

次女 マツ(1887~)

婿  清蔵(1878~)・・・古島恵作三男。長兄が古島夘七。

                     子に松生(1903~)

 

 

養子 十吉(1877~)・・・宇城市小川町河江 井村藪平? 甥

 

長男 武市(1894~)

ルーツ斉藤家(いなべ市藤原町篠立)

いなべ市藤原町篠立に数軒ながら、現在も斉藤家が存在します。

篠立の斉藤家は一般的な「斎藤」ではなく、「斉藤」と記します。

余談ですが、「斎藤」や「斉藤」以外にも「齊藤」や「齋藤」などがありますが、

 

実は「斎藤」が一番正確であるといい、他は役人が書き間違えたものだと言われているようです。

 

篠立の斉藤家の家紋は、「丸に蔓柏」のようです。

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私の先祖にもこの篠立斉藤家出身の方がおり、私の曾祖父やその兄弟は母親を早くに亡くしたため、斉藤家出身の祖母に育てられたといわれています。

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曾祖父の祖母の名前は「安藤とく」。

篠立村、斉藤市平の三女で、幕末に北勢町垣内の安藤家へ嫁ぎました。子や孫達を育て上げ、昭和8年(1933)2月5日、享年93歳の大往生を遂げました。私の祖母が生後二か月の時でした。

 

斉藤市平さんは私の先祖にもあたるので、篠立の斉藤家の縁者の方で何か御存知の事があれば、コメントでもメールでも構わないので、ご一報いただければと思います。

 

 

さて、斉藤家のルーツを知る手がかりとして、篠立出身の三和覚氏の『しのだちむかしばなし』という本があります。この本は三重県立図書館に所蔵されております。

発行は篠立にあり、山村留学やホタルの飼育でも知られ、一昨年の平成29年(2017)3月に閉校した立田小学校です。

 

それによれば、木村甚太郎家前に三十貫ほどの石が古くから代々受け継がれて置いてあり(昭和40年、1965年頃に撤去された)、ここから西方100メートルくらいの場所に、斎藤氏は住んでいたといい、豪族であったといわれています。

斎藤氏が外出する時には、この石のところで下馬して、鞍の上げ下げをしていたと言い伝えられているといいます。

 

篠立は岐阜落城の時、斎藤氏縁故の人々が移り住んだと伝えられているということです。

斉藤氏とは、美濃の戦国大名である斉藤氏で、著名な人物としては信長の義父で、「美濃のマムシ」の異名をとった下克上の代表格、斎藤道三がいます。岐阜城は斎藤氏が代々居を構えた城であり、当時は稲葉山城と呼ばれていました。

 

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この事から、篠立の斉藤氏は、美濃斎藤氏に縁故の武士であったともいわれているとのことです。篠立でも斉藤家は古い家系といわれていて、斎藤一族が居をかまえたのは、江戸時代初期頃と言われています。

 

斎藤氏が篠立に移り住んだ時、これに従って来た一族に高橋氏(美濃高橋村出身と伝う)がおり、天正8年(1580)死亡の位牌が残されているといいます。

 

篠立斉藤家のルーツは美濃(岐阜県)にあったのは間違いないと思われます。

共有 出口家のルーツ

出口家のルーツはネット上で検索しても中々出て来ません。

私もまたルーツを出口家とするものとして、種々調査して参りました。以下の記事をぜひご参照ください。

 

出口家のルーツ1

出口家のルーツ2(いなべ市の出口氏)

 

皆様の出口家のルーツは何でしょうか?

 

・どこ住みか(〇〇県とか、△△市のようなざっくりしたもので構いません)

・何代目か

・家紋

・ルーツは何か(言い伝えなどなど)

 

可能な範囲内でコメント欄に書き込んでいただければと思います。

投稿者名とコメントを書いて、認証を押してから投稿するを押すと、コメントを書き込むことが出来ます。

 

皆様と出口家のルーツについて共有したいと考えております。

コメントお待ちしております。

ルーツ山本家(いなべ市北勢町垣内(一之坂)→四日市茂福)

三重県いなべ市北勢町一之坂(住所は垣内)にかつて存在した山本家。

現在はその分家にあたる家が一軒あります。

私が幼少の折にはH子さんというおばあさんが一人でお住まいになられていましたが、一昨年かその前かにお亡くなりになられ、山本家の屋敷も処分されたようです。

 

山本家の家紋は 丸に笹竜胆です。

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お寺は藤原町東禅寺西教寺さんですが、H子さんが亡くなられた時には桑名の方の寺院で法要は執り行われたという風に聞いています。

 

H子さんの旦那さんは吾陸さんといい、この方は早くに亡くなられているようです。読みは「ごりく」さんとのこと。

 

吾陸さんの母はとくさんといい、母が幼少の頃、祖母方の親戚の誼からか、預けられていたことがあったそうです。昭和49(1974)年頃に100歳の大往生を遂げられたと、母から聞いています。

 

吾陸さんの父は常三郎さんといい、私の高祖父と兄弟でした。

 

この常三郎さんの父、常造さんこそ私の先祖にあたります。

常造さんは私の祖母の実家である安藤家から山本家へ養子に入り、祖母の曾祖父である安藤源右衛門の弟で、安藤庄蔵の息子です。

 

常造さんの先代は名前は不明ですが、明治5年5月28日付の文書に、垣内村百姓総代として山本利八さんという名前があります。おそらくはこの方が常造さんの先代ではないでしょうか。

 

山本家の墓を見ると、建立者は山本常一、山本貫一となっています。

このお二人はおそらく吾陸さんの兄と思われます。

 

貫一さんには、貫二さんという息子さんが居られたようです。

 

常一さんは四日市市茂福(富田)に住まわれていたというように聞いています。

2000年度の電話帳に、四日市市西阿倉川に、山本常一さんのお名前が見えますが、関係があるかどうかは不明です。

 

もし何かしら関係のある山本さんがいらっしゃいましたら、お気軽にコメント、もしくはメールをください。

 

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ルーツ田中家(熊本県八代市鏡町内田)

田中家一族系図(一部略)

戸籍の情報を基とし、ブログ主の集めた情報を基に作成。

 ↓系図をクリックすると拡大します

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 ※個人情報保護の為、一部名前を伏字(アルファベットは必ずしもイニシャルではない)。女性は赤字、太枠は田中家の人、二重線は婚姻、黄色は本家。

鏡町内田 田中家系譜
※市町村は現在のものです

初代 長助
妻   タセ(1822?~1889)・・・八代市氷川町鹿島
                   上村伊七次女

2代 勇作(1834~1892)・・・長助長男
妻 ワキ(1840~1923)・・・八代市高下東町 上田新平長女

3代 才蔵(1860~1927)・・・勇作長男
前妻 不明
後妻 サモ(1864~1944)・・・八代市鏡町
                嶋田太蔵(島田太三)の長女
                福岡県大牟田市久保田町にて

                死亡
                      同居者池末ツキが届出

弟 豊吉(1865~)・・・勇作次男、分家
妻 テツ(1871~)・・・八代市鏡町内田 倉本寅吉次女

妹 不明・・・勇作長女

妹 チセ(1874~)・・・勇作次女、鏡町内田 田上京吉と婚姻

弟 栄十(1877~)・・・勇作三男、分家
妻 ツイ(1887~)・・・八代市鏡町内田 藤川浅吉三女

4代 安太郎(1881~)・・・才蔵長男。
妻  ミツエ(1896~)・・・八代市鏡町内田 白田伊之吉次女 

弟 嘉市(1891~1960)・・・才蔵三男。ブラジルに渡った後、福
                岡県大牟田市で死亡。
               届出をしたのは同居の親族池末Jり氏
              (ツキの子)
妻 ナミ(1889~)・・・八代市千丁町古関出 内田作平四女

妹 イチ(1893~1931)・・・才蔵長女、私の曾祖母
                      三重県 近藤周三郎と婚姻
妹 ツキ(1896~)・・・才蔵次女
             福岡県 池末江郎?(字不明瞭)と婚姻
                          もしくは四郎か?

弟 大次(1898~)・・・才蔵四男、分家
妻 ミエ(1901~)・・・八代市千丁町古閑出 古島夘七次女
    もしくはノエ?

妹 ハス(1900~)・・・才蔵三女
             八代市鏡町鏡 泉用吉?と婚姻

 

私の祖父、I男の母、イチは当時、熊本県八代郡鏡町大字内田(現熊本県八代市鏡町内田)の田中家出身です。熊本県はとりわけ田中家が多く分布しています。

祖父は幼少の折、母親であるイチを亡くしており、母親の事はおろかルーツの事は何も聞いていないと言っていました。

 

しかし、かすかに祖父が知っていた事は以下の通りです。

・母親は熊本出身

アメリカかブラジルに行っている人がいる(帰ってきているかどうかは不明)

・父親の周三郎が仕事で熊本を訪れた際にお見合い結婚した

 

また、曾祖母の遺品としては唯一次の写真が遺っていました。右が曾祖母、イチで左はおそらくイチの母、サモだと思われます。

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私は曾祖母イチの戸籍を遡りました。すると、曾祖母イチの兄がアメリカへ渡っており、またイチの甥、I男がブラジルに渡っていた事が判明し、祖父の証言と一致しました。

また、戸籍の情報を手掛かりに田中家関係者の方にお手紙を送ったところ、一人の方と連絡がつながりました。その方は祖父のいとこにあたる、曾祖母イチの兄、田中安太郎の三女、住田F子さんです。

 

 住田さんによれば、田中家の家紋は丸に四ツ目だといい(平四ツ目など色々バリエーションはあるとの事)、菩提寺八代市千丁町にある大法寺だという。

F子さんの父、安太郎は継母や異母兄弟とそりが合わなかったためか、「男ならば一本立ちしてみせる」と単身アメリカへ渡って鉄道会社で働き、アメリカ在住中に写真結婚でミツエと結婚したと言います。ミツエの実家は大農家だったといいます。

 

その後、安太郎は熊本へ帰り、実業家や政治家をしていたとのことです。F子さんが子供の頃には田中家には女中さんやお手伝いさんがいて、アメリカへ行って食事をされたこともあったといいます。

 

F子さんは余り田中家の事については余り知らないといい、おじやおばの事もよく分からないとのこと。ただ、池末ツキ(ツギ?)のお葬式には夫と二人で行ったといい、その他田中大次は台湾に住んでいたといい、終戦後熊本へ戻り、政治家をしていたF子さんの父の勧めで地元の漁業組合に参加していたといいます。

 

田中家はF子さんの兄であるD隆さん家ですが、F子さん以外の兄弟は皆既に亡くなり、現在はF子さんが田中家の墓守をしておられるとの事でした。

 

次に、F子さんの情報を基に政治家をしていたという安太郎の足跡を追えば何か田中家についての手がかりが得られないかと思って調べていくと、彼についての資料が見つかりました。

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上記史料から、田中家はかつて貧しかったこと、そして農業と漁業を兼ねていたであろうことなどが分かりました。『内田郷土誌』によれば、鏡町内田は自作農家が少なく、小作農家が八割を占めたと言い、貧しい中でも曾祖母や先祖達は必死に生き抜いた事がうかがえます。

この資料によれば安太郎で田中家は三代目だといいます。また、この資料では幼くして両親を亡くした事になっていますが、父親の才蔵は昭和2年まで存命だったため、これは母親の誤記と思われます。

 

私が知り得る田中家は以上の通りになります。できれば田中家のルーツについて直接熊本を訪れて色々と御話を聞いてみたいのですが、現状その機会に恵まれません。

 

もし家系図やこの記事を見て思い当たる節や記事の感想等がありましたら、ぜひともコメントもしくはメールにてお寄せください。お待ちしております。 

初代近藤利兵衛

三重県いなべ市北勢町飯倉。この地には古くより近藤家が栄えています。

この北勢町飯倉の近藤家のルーツはまたいつか詳しく紹介するとして、この飯倉村より出たる偉人、初代近藤利兵衛(りへえ)を紹介したいと思います。

 

近藤利兵衛という名跡は三代続いた名跡で、神谷伝兵衛の醸造する葡萄酒を販売し、有名になったことで知られ、後に近藤利兵衛商店も立ち上げました。

近藤利兵衛と言えば、2代目近藤利兵衛が知られており、初代については2代目近藤利兵衛の経歴が語られる中で語られる程度であり、その経歴や生い立ちなどはあまり知られておりません。今回はその初代近藤利兵衛にフォーカスを当てて、判明する限りの経歴等を記していきたいと思います。

 

員弁郡略史』(近藤実著)に、近藤利兵衛について次のような記述があります。

 

※見やすさの為、一部改変しました

職業:酒造家

出身:飯倉

没年:?

略歴:酒男かた辛苦をかさね蜂蜜香ざん葡萄酒醸造で、名を天下に博す

 

 

蜂蜜香ざん葡萄酒を醸造していたのは神谷伝兵衛であり、その販売を近藤利兵衛が請け負っていたためそこは誤りです。利兵衛が飯倉の近藤家より出たことを立証できる手掛かりはないかと調べていたところ、一つのブログが目に入りました。

 

https://ameblo.jp/honmokujack/entry-10790840182.html

 

東京都台東区谷中霊園にある、2代目「近藤利兵衛」とその妻「加津子」の墓です。

そして家紋を見てみると、「丸に桔梗」ではありませんか!

「丸に桔梗」という紋は、飯倉近藤家の紋であり、なるほど飯倉出身というのはどうやら間違いないということを確信しました。

利兵衛が飯倉を出たのは江戸時代末期の事ですから、飯倉の近藤家は江戸時代より「丸に桔梗」を受け継いでいるということもこれで明らかとなりました。

 

余談ですが、飯倉というのは江戸時代は飯倉村でしたが、元々は飯倉も阿下喜村(現いなべ市北勢町阿下喜)の行政区であり、1640年頃に高付けにより一つの村として独立して、独自の集落を為し、飯倉村の庄屋は近藤家が務めました。

阿下喜にも近藤家は非常に多く、古い阿下喜をたとえて「ケヤキ、馬の糞、近藤」といい、「阿下喜は総近藤」と言われたほどで、現在も多くの近藤家が栄えています。

この阿下喜の近藤家の紋も「丸に桔梗」が多いです。違う紋の家もありますが、圧倒的に桔梗紋が多いといっても過言ではありません。

 

 

 

さて、話を初代近藤利兵衛に戻しましょう。

『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』は、初代利兵衛の履歴について以下のように記しています。

 

この利兵衛氏は伊勢の生れで、若い時兄と二人で郷里を出て、下野国佐野で暫く酒の醸造をして居た

 

では、なぜ初代利兵衛が下野国佐野で酒の醸造をすることになったのでしょうか。

郷土資料の『員弁史談』(近藤実著)に、阿下喜の近藤修(1873~1953)氏から聞いた話として以下のような話が出て来ます。

 

修氏の祖父八蔵氏は、阿下喜村の隣村である治田村で酒造業を営んでおり、、ここでは年1回の工員の慰安旅行がもたれ、江戸、日光と京阪四国への二班へ分けて行われた。利兵衛は、或る年の慰労に東組に加わり、帰途上州酒の本場、佐野の千石づくりの大酒造家の工場見学中、当家の主人に見込まれ、同家の酒造に従事することとなった。はからずも主人の気に入り、その妹と夫婦になって東京に移住し、専ら販売の任にあたった。これは明治10(1877)年頃の話だという。

 

ここで、『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』の記述に戻りましょう。

 

其後兄と別れて単身江戸へ乗り出し、日本橋酒類の取次販売を始めるに至つた。妻女を「はる」と云つて岩吉君の実姉であるが、夫婦の間には子供がなかつたので、弟を養子に迎へることになつたのである。

 

この岩吉こそ、著名な後の2代目近藤利兵衛(1859~1919)です。

岩吉は松熊林蔵の三男として江戸に生まれ、幼少より奉公に出ており、明治22(1889)年に義兄である近藤利兵衛の養子となりました。岩吉は利兵衛妻はるの弟でした。

ここではあくまで初代近藤利兵衛の紹介なので、2代目利兵衛(熊吉)の記述は簡略化させていただきます。

 

熊吉を是非養子に、と望んだのは日本橋檜物町で酒商を営んで相当繁盛していた利兵衛でした。養子に入った熊吉はまだ20歳ばかりの若者でしたが、真面目で一生懸命働き、間もなく店の一切を切り盛りするようになったそうです。

既に相当な資産も出来ていたため、利兵衛は家は養子に譲って、楽隠居でもしたいと常々考えており、店の一切を養子の熊吉に任せていました。

 

熊吉も養父利兵衛の期待に応えて、朝早くから夜遅くまで働き、何事も養父と相談して一切を切り盛りしていました。

またこの頃から洋酒の取次を始め、「発売元となった神谷伝兵衛醸造の蜂印香竄葡萄酒の販売で業績を伸ばし」(コトバンク 近藤利兵衛より)て、相当繁盛していたといいます。その宣伝も非常に当時としては画期的だったそうです。

 

そして、この頃(おそらく明治20年頃)、55、6歳であった利兵衛は早く家督を熊吉に譲り、自分は別居したいと考えていました。

 

※初代利兵衛の生年はわかりませんが、『神谷伝兵衛と近藤利兵衛』から天保年間(推定天保5、6年(1835、1836))の生まれであると思われます。

 

それには熊吉に妻帯を持たせる必要があると考え、姪にあたる(おそらく下野国で分かれた兄の子か?)、栃木県下都賀郡栃木町困部、市川弥平の長女、かつと結婚させました。熊吉は妻帯することはまだ好んでいませんでしたが、少しも早く隠居したいと考える養父利兵衛のために、結婚を承諾しました。

 

そして明治25(1892)年5月13日、岩吉31歳の時に利兵衛は家督を譲り、6月22日には利兵衛は隠居しました。ここにおいて、熊吉は養父の名を襲名し、2代目近藤利兵衛を名乗りました。養子に家督を譲った利兵衛は日本橋区村松町に一戸を構えて別居していました。

 

しかし、親孝心な養子は一々養父利兵衛に相談し、またその結果を報告しに行きました。本町から村松町まではかなりの距離でしたが、健康な限り乗り物を使わず、誰も歩かない豪雨の日でも、見かねた店員が「今日はお車を呼びましょうか」といっても、「なに、大丈夫だ」と傘をさして元気に養父のところへ相談、報告に行ったといいます。妻のかつも、この義父母を慰めることを忘れなかったといいます。

 

初代利兵衛がいつ頃亡くなったのかは、私の調査したところでは明らかになりませんでした。しかし、明治末期から大正初期にかけて亡くなっているのではないかと思われます。

その後、近藤利兵衛商店は大正7(1918)年に株式会社となり、財界にも進出していきました。

私は利兵衛と同じ飯倉近藤家をルーツに持つものであり、なんとなく親近感をかんじます。

 

江戸時代末期に田舎の山間部を出て、創業の大業を成し遂げた初代近藤利兵衛翁。

郷土出身の偉大なる先人に対して、惜しみない敬意を表し、その功績を後世まで語り継いでいきたいと思います。

 


さて、近藤利兵衛商店はその後どうなったのでしょうか。私なりに調べてわかったことを記して結びとしたいと思います。
2代利兵衛は、現福島県いわき市の実業家、白井遠平の6男、六郎を自らの4女、冨子と婚姻させ、養子として迎え入れました。
その後、六郎は3代目近藤利兵衛を襲名しましたが、戦時中の卸機関の整理統合により、商店(近藤商事㈱と改称)は蜂ブドウ酒による営業を中止、一方では倉庫業、不動産業などに従いましたが、終戦後の空白期に酒類の卸を廃業し、ここに約70年と3代にわたる酒商、近藤利兵衛商店の歴史に終止符が打たれたました。
子孫は多岐に渡り、現在も連綿と続いているものと思われます。

 

 

※官報より