ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

三重県・葛山一族のルーツ③「家紋・寺・伝承」

次に、いなべ市藤原町東禅寺にある浄土真宗の寺院、明源寺が発行している『明源寺の沿革 第2集』(※以下『沿革』、平成12(2000)年頃刊行か)を紹介しましょう。

同書によれば、静岡県裾野市を発祥とする葛山一族は、戦国末期に一族離散となり、各地に離散となり」、「その中の一部が、縁をたどって北伊勢にも流れ」、「北伊勢の葛山一族を名乗る家紋は、左巴だといいます。

確かに、明源寺のあるいなべ市藤原町東禅寺の葛山一族の紋は左巴(多くは丸に左巴紋)です。ですが、以下に記すように北伊勢といっても東禅寺に限定しているように思われます。

東禅寺の葛山一族はこの明源寺を菩提寺としています。

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なお、一軒だけ丸に蔦の葛山家がありますが、これはおそらく途中で家紋を変えたのだと思われます。

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ここで、県内の他の葛山一族の家紋を紹介しましょう。

いなべ市北勢町治田地区の葛山一族の家紋は、揚羽蝶(多くは丸に揚羽蝶です。管見の限りでは、別名地区に一軒だけ揚羽蝶の家があります。その事が何を意味するのかは不明です。

治田の葛山一族の菩提寺は、北勢町東村(治田地区)にある真宗大谷派の寺院、紫光山円福寺です。

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2019/6/18追記

四日市蒔田の葛山家の縁者の方から情報をいただきました。菩提寺は蒔田にある長明寺、家紋は抱き茗荷とのことです。長明寺は葛山一族と縁の深い寺院です。この事は後述します。

 

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朝日町大字小向の葛山一族の紋も気になるところです。

 

さて、葛山一族が伊勢国に逃れた理由とは何でしょうか。

『沿革』はその理由を葛山一族に縁の深い浄土真宗本願寺派(西)の寺院が三ヶ寺存在したことによるといい、その三つとは、三重県四日市蒔田の長明寺(当時川越町豊田にあった長恩寺)、同三重郡朝日町小向の浄泉坊、同いなべ市藤原町の明源寺であるといいます。

長明寺の蒔田一族は、葛山一族と同じ藤原氏一族、浄泉坊と明源寺の住職の姓は葛山だったといい、『沿革』はその縁を遡って落ち延びたとしています。

同寺に伝わる系図によれば、寛文10年(1670)に亡くなった六代住職・善正の妻・妙好は東禅寺村の葛山七ロ座衛門の娘とあり、『沿革』は葛山一族は遅くても、1670年までには、藤原町東禅寺に存在したと考えられるとしています。

妙好が亡くなっているのは寛文3(1663)年ですから、遅くともこの時までには既に葛山一族が東禅寺に存在していたということだと思われます。

 

以下、葛山一族と縁深い三寺院について沿革を簡単に紹介します。

 

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▲足下山 明源寺(Googleマップストリートビューより、2014年12月現在)

大同3(808)年に天台宗の開祖である最澄が開基で東禅寺と称していたが、元久元年(1204年)に当時の住職が親鸞聖人(1173-1263)に帰依、その後顕智上人(1226-1331)の教化によって真宗高田派に属して明源道場となり、後に本願寺が東西で分裂すると本願寺派に帰依。正保4年(1647年)7月14日に寺号を賜った。

江戸時代の文献では「葛山山」とも呼ばれており、住職の姓も葛山だったが、明治5年(1872)7月に「古寺」と改姓し、現在に至る。

 

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▲朝明殿 長明寺(Googleマップストリートビューより、2018年10月現在)

創立年代や開基は不明。元々は真言宗潮音寺と称して豊田村(現三重郡川越町豊田)にあり、長恩寺という字名が当地に残っている。

文明17(1485)年頃に真宗に改宗、慶長9年(1604)に現在の寺号を公称し、寛永元年(1624)に木仏の許可を得て寺院化。慶安4(1651)年に領主・松平隠岐守定行によって現在の寺地(蒔田城跡地)を賜り、翌年に寺基を移した。

 

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▲小向山 浄泉坊(Googleマップストリートビューより、2017年12月現在)

 正治元(1199)年、小向神明宮の別当寺である正治寺として始まり、応仁元(1467)年に蓮如上人に帰依したが、戦国時代の永禄10(1567)年に兵火にかかり焼失。

慶長8(1603)年に伊勢慶昭が再興して現在の寺号に改称し、寛永15(1638)年に西本願寺より寺号の公称を許された。桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたこともあり、山門や瓦に徳川家の葵の紋が入っていたため、参勤交代の大名は駕籠を降りて黙礼したと伝わる。

元々住職の姓は「葛山」だったが、いつの頃か地名にあやかってか「小向」に改めている。先の明源寺第九代住職・怒正の二男・玄宗が同寺に入っており、縁深い。

 

なお、朝日町では今川義元が、織田信長に討たれ先陣の葛山氏は帰れなくなり三重県に土着したのではないかと言われている」「小向には、城郭風の寺があり先祖の屋敷跡と言われている」という伝承が伝わってる由です。

城郭風の寺とは、この浄泉坊の事を指しているものと思われます。

また、別の葛山さんは「実は葛山氏元は亡くなっておらず、朝日町に逃れてきて、自分が子孫である」と語っています。伝承は多岐に渡っているようです。

 

また、『員弁史談』(近藤実著、員弁郡好古史研究会刊、1981年、以下『史談』)は「葛山氏が敗れてその裔族が伊勢に移住して栄えたのが、北勢町の葛山一族であるというドラマが最近解明された」として、葛山一族が伊勢に逃れてきた理由を次のようにしています(※西暦は算用数字に改めました)。

永禄三年(1560)五月織田信長今川義元桶狭間で敗死させた時には、葛山備中守信貞は今川義元重臣の一人で、五千騎の大将として奮戦信長のために敗死の運命をたどった。今川氏が滅亡すると、葛山信貞武田信玄の妹の子という伯父甥の姻戚関係をもって、その裔葛山氏は武田の客将となったが、その後不和の事起り、葛山城は武田軍の攻略によって天正八年(1580)落城、一族は信州諏訪に逃れ滅んだ。その裔孫伊勢の豊田(現四日市、旧富州原の豊田)の藤原氏に縁のある長恩寺(現長命寺)・宝性寺の庇護により土着、その一族が員弁入りをしたのは天明二年(1656)以後と文献は伝えている。葛山城の悲史と現地調査によって判明した来歴である。今後の解明による点が多いことを断っておく。(葛山家系図並に諸文献は葛山弘氏蔵)

 

なお、文中では天明2年となっていますが、天明2年は1782年であり、1656年は明暦2年です。天明2年は明暦2年の誤記ではないかと思われます。長命寺は長明寺の誤記と思われます。

また、龍王山宝性寺は元々天台宗だったと言われていますが、現在は地元の観音堂として信仰され、「蒔田観音」の愛称で呼ばれているようです。

『史談』の記述の元となった文献の記述が気になるところです。

 

先の『一族』も『史談』同様に、桶狭間の合戦で葛山備中守信貞が五千の兵を率いたとしていますが、「武田源氏一流系図」には、油川信恵武田信玄の祖父、信縄の弟)の子に葛山播磨守信貞という人がいて、号葛山、母信虎入道之妹、駿州竹下住人葛山備中守維貞養子、属今川義元、在城尾州笠寺、歌人とあり、また信玄の妹に「葛山播磨守信貞妻」という記載があるため、『一族』や『史談』の言う「葛山備中守信貞」とはこの人物の事を指して言っているものと思われます。

この系図に基づくならば『一族』が言うように信貞信玄は伯父甥の関係ではなく、血縁的には信貞信玄の父・信虎のいとこであり、信玄とは妻を介しての義兄弟だったことになります。

 

しかし、戦国時代の今川氏を主に研究している歴史学者静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は、当時の今川氏の確かな史料には信貞の名前は出ていないことを指摘しています。

ですが、桶狭間の合戦当時の「葛山播磨守」は以下のように散見されます。

※カタカナは平仮名に改めました

 

・永禄元年(1558)3月3日付今川義元書状(※この書簡は偽文書扱いされています)

去晦之状令被見候、廿八日夜織弾人数令夜込候処に、早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、

(※日付及び署名略)

浅井小四郎殿

飯尾豊前守殿

三浦左馬助殿

葛山播磨守殿

  笠寺城中

 

・『三河記』

十五日、義元岡崎に到着せらる、(略)兼てより(略)笠寺の城には葛山播磨守・三浦左馬助・朝比奈兵衛尉・浅井小四郎を入れ置ける、

 

・永禄3年(1560)5月20日付池田庄三郎・前田右馬頭書状

※この書状で名前が挙がった理由については『改正三河風土記』の記述を参照。

葛山播磨守 後陣旗頭

   

・『改正三河風土記』上 国会図書館デジタルコマ番号(165)

※出典は先述の永禄3年5月20日付書簡か

後軍の旗奉行葛山播磨守長嘉同乾安房守元清(略)以下随一の勇士五百八十三人義元の討死を聞て其場を去らず枕を並べ討死す今川の同胞権阿弥(略)を下方九郎右衛門春風生捕て信長の前へ引来る信長大に悦ばれ今日討取首共を彼に見せらる権阿弥懐中より帳面取出し其姓名を首に引合せて銘々に書付て出しけれバ信長大に感ぜられ一命を助け駿府へ送り返されたり

 

・『天澤寺記』「桶狭間殉死之士」

葛山播磨守長嘉 後陣旗頭

葛山安房守元清

 

・『葛山家譜』

綱春 葛山播磨守(略)終為義元死、笠寺籠城五人之内、最得武名、

 

名古屋市在住の子孫伝

葛山播磨守元綱 継深院智〇勇勁居士

葛山備中守総武 栄観院葛山義忠居士

 

尾張高徳院過去帳

葛山播磨守信貞戦死

葛山安房守元清戦死

 

・「葛山氏を語る」

葛山備中守勝嘉

葛山播磨守信貞(維貞養子)

 

以上を考えると、桶狭間の戦い当時に葛山播磨守という人物がいて戦死したらしい、という事は少なくとも言えるのではないでしょうか。

また『伊束法師物語』一の「岡崎与駿府一味之事」には、「義元の家老葛山播磨守」とあります。「後陣旗頭」の「葛山播磨守」と同一人物だと思われます。

しかしその実名が「長嘉」なのか「信貞」なのか「綱春」なのか「元網」なのかは不明です。

 

なお、葛山城址保存会賛助会員で葛山城祭企画委員の某氏は、播磨守信貞は桶狭間の戦いで戦死しておらず、「船で伊勢に落ち延びて土着した」そうだとしています。

 

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四日市在住のある葛山さんは、父から先祖が戦に追われ現在の三重県四日市市富洲原港まで逃げて来て、一部の者は蒔田地区に居座り、他の者はいなべ市藤原地区まで来た女子は京都に逃げ延びたと聞いたといいます。また、裾野からでは無く、関ヶ原からの移動説もあるとのことです(yahooブログ、2017年3月10日のコメントより)。

藤原町は東禅寺にしか葛山姓はないため、ここでいう藤原地区は東禅寺を指しているものと思われます。

なお『史談』は、藤原町東禅寺の葛山一族は治田別名から移った一族といわれていると記しています。別名といっても広いのですが、別名でも葛山家が多く分布している場所は、東禅寺とかなり近く、徒歩5分くらいの距離です。

 

先述したように治田の葛山一族と東禅寺の葛山一族とは家紋も菩提寺も異なります。

しかし、治田別名から移ったという伝承を考えると、遡れば東禅寺の葛山一族と治田の葛山一族は同族だったと考えて差し支えないと思います。 

 

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