ルーツを尋ねて三千里

歴史を紐解きルーツ・先祖を辿る

出口家のルーツ1

森岡浩編『全国苗字大辞典』(東京堂出版 2011)の「出口」の項目に以下のような記述があります。

 

方向性の一種で各地にあるが、三重県和歌山県長崎県・石川県に多い。とくに三重県いなべ市に集中している。そのほかでは、和歌山市付近や金沢市にも多い。

 

出口は一般的に「デグチ」と読みますが、長崎では「イデグチ」が主流だといいます。

いなべ市の出口氏については個人的に調べたので、その記事も併せて読んでいただければ幸いです。↓

出口家のルーツ2(いなべ市の出口氏) 

 

さて、次に私は出口氏のルーツの記載のある本を調べました。苗字辞典の類です。それらによれば、出口氏のルーツとして著名なものは渡会氏族、三浦氏族、藤原姓の3つです。しかしながら、全ての出口のルーツがこのいずれかになると考えるのは早計かもしれません。

 

鹿児島県には出口という地名が多く存在し、徳島県三重県にも出口という地名が存在します。この「出口」という地名を発祥としている出口氏も少なくありません。出口氏のルーツとして著名な度会氏系も、度会延雅という人が出口という地を領して出口氏を呼称した事に始まっています。

同じ苗字であるからといって、必ずしもルーツを同じくするわけではないのです。

 

出口氏について詳細な記載のある本は『姓氏家系大辞典 第2巻』(1936年、姓氏家系大辞典刊行会)です。

国立国会図書館にデジタル化されたものがあり、webで見ることができます。

そこに記載のあった内容を要約(ほとんどそのまま転記したものもありますが)したものを、私の調べた範囲で判明した情報を踏まえながら以下に記します。

 

度会姓出口氏

出口姓の中では一番著名なものである。

伊勢神宮外宮祠官家の渡会延貞の子、度会延雅(1300年代頃の人)が、伊勢国桑名郡出口(現:三重県桑名市長島町出口)を領して出口氏を呼称したことに始まる。以降の歴代は外宮の権祢宜を伝領した。

延雅から数えて7代目の出口延佳(1615-1690)は、江戸時代初期の国学者として知られている。

また、この出口氏は「短冊紋(図1)」を使用したと言われている。

現在発祥の地である桑名市長島町出口には、出口姓は確認できない。

 

※度会姓出口氏系図

延貞(渡会)ー延雅(出口)ー延員ー延秀ー延親ー延安

                      ー延繁ー延伊ー延良

                            ー繁園

                            ー延佳ー延昌ー延春

ー延転ー延勝ー延命ー延時

 

※ 度会氏は渡来人か?

実業家で心理学者の出口光氏が、「出口家のルーツ」として度会系出口氏を次のように考察しています。

1.『渡会』は朝鮮古語で『海族・海族を守る神』(パタライ)を示す。
2.江戸時代、伊勢神宮の外官の神主(禰宜)家として豊受大神(トヨウケノオオカミ)を奉っている。
3.長崎には出口が多く存在することから、出口氏は朝鮮から渡ってきた可能性が高い。

既記の通り、度会氏系出口氏は度会延雅が出口という地を領して呼称した事に始まっているのであり、光氏が言うように「長崎県に「出口」が多いことから、朝鮮半島や中国大陸から「出口」という姓の人々が船で渡来し、移住もしくは繁栄を繰り返しながら瀬戸内海を通り、和歌山や三重と言った紀伊半島の土地に至った」というのは考えにくいように思います。

また、長崎出口氏と度会系出口氏を結びつける史料は現状見つかりませんし、度会氏が朝鮮から渡来したという事を示す記録も私は寡聞にして存じませんし、長崎県には旧来度会姓はないようです。

度会氏が朝鮮から渡来したという仮説は、ワタライとパタライという音の類似を以て語源とする説(韓国語源説)から来ているのですが、そもそも朝鮮の古代音というのは未解明な部分が多いのが現状です。

以上を考えると、度会氏が朝鮮から渡来した一族というのは仮説としても信憑性は薄いように思われます。

しかしながら、度会氏は元々磯部氏を称し、磯部氏は海人族であったという説があり、光氏が考察しているような海に縁のある一族であった可能性は否定できません。

 

 

三浦姓出口氏(相模出口氏)

本姓は三浦氏で、新井城主・三浦時高の弟で三浦介高明の子である三浦高信が出口氏を称したことに始まる。この出口は新井城の出口に居したことに由来するとされ、三浦郡下宮村田に出口という字がある。

時高の孫・義同(1451?~1516)の時に滅亡し、『北条五代記』には「永正15(1578)年7月11日、三浦道寸討死し、其の時節、出口五郎左衛門尉茂忠、三崎の城に有りしが、一族の者共、皆舟に取り乗り、三崎城ヶ島へ渡る」とあるが、この茂忠は高信の子である。

茂忠は城ヶ島へ渡った後も抵抗したが、最終的には北条氏に降伏した。子の茂信、孫の茂正(1565~1644)と3代に渡って後北条氏に仕えたが、茂正の時に後北条氏は滅亡。この茂正こそ、『北条五代記』を著した三浦浄心その人である。

浄心の子、茂次までの系図が伝わっているが、以降の系図は不明。

現在でも、神奈川県三浦市では三浦一族の紋「丸の内に三つ引き」(図2)の出口家が多くあるという。

 

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藤原姓出口氏

家紋「丸に短冊(図3)」、「三星(図4)」、「舞鶴(図5)」

寛政系譜に「與一左衛門正元―勝之助元品―左源太元智」と見える。この出口家は江戸幕臣という。

 

佐藤氏族

肥前大村藩士。源義経の家臣で源平合戦屋島の戦いとされる)で戦死した佐藤嗣信の末裔といい、本国は美濃という。

 「佐藤嗣信」の画像検索結果

 

その他

田中家臣(どこの田中かは不明)知行割帳に「120石出口惣太夫」と見え、また加賀藩給帳に「100石出口龍太夫」とある。

摂津、志摩、美濃等にある。

 

 

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